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宮崎地方裁判所 昭和43年(わ)215号 判決

本店所在地

宮崎市高千穂通一丁目七番二四号

岩切商事株式会社

(右代表者代表取締役 岩切博盛)

本籍

宮崎県東諸県郡国富町大字嵐田二五七六番地の一

住居

宮崎市高千穂通一丁目七番二四号

会社役員

岩切博盛

大正一三年二月二八日生

本籍

宮崎市下北方町塚原五八三六番地

住居

同市中瓜生野二二七〇番地

貸金業

大野惟孝

昭和二年四月二八日生

右岩切商事株式会社及び岩切博盛に対する法人税法違反並びに大野惟孝に対する所得税法違反及び預金等に係る不当契約の取締に関する法律違反各被告事件につき、当裁判所は検察官熊澤孝出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人岩切商事株式会社を罰金七〇〇万円に、同岩切博孝を懲役一〇月に、同大野惟孝を懲役一年四月及び罰金五〇〇万円に各処する。

被告人大野惟孝において右罰金を完納することができないときは、金五万円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。

被告人岩切博盛及び同大野惟孝に対し、この裁判の確定した日からいずれも一年間右懲役刑の執行をそれぞれ猶予する。

訴訟費用村、証人谷口秀精(昭和四三年(わ)第二一五号事件の第三七回公判期日分を除いたその余の全部)、同檜木忠義、同巽千枝子、同川良義光、同石川文洋、同大川武、同野崎恭平(昭和四四年(わ)第一五八号、昭和四五年(わ)第一九九号事件の第四九回公判期日のみ)及び同岡勢隆平に支給した分は、その三分の一ずつを被告人三名の、証人矢野温三(昭和四四年(わ)第一五八号、昭和四五年(わ)第一九九号事件の第五二回公判期日分のみ)、同甲斐則一、同磯崎良一、同西村利光、同妻木龍雄、同小林文治、同服部盛隆、同川崎ミサ(二回分共)、同谷口三重子、岡田北勲及び鑑定人富永欣一に支給した分は、その二分の一ずつを被告人岩切商事株式会社及び同岩切博盛の、証人谷口秀精(昭和四三年(わ)第二一五号事件の第三七回公判期日)に支給した分は、その二分の一を被告人大野惟孝の各負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

第一  被告人岩切商事株式会社(以下、被告人会社という。)は、宮崎市高千穂通一丁目七番二四号に本店を置き建築資材及び鉄鋼一次、二次製品の販売等の事業を営むもの、被告人岩切は、被告人会社の設立以来の代表取締役で被告人会社の業務全般を統括しているものであるが、被告人岩切は、被告人会社の業務に関し、その法人税の一部を免れようと企て、

一、被告人会社の昭和四〇年一〇月一日から昭和四一年九月三〇日までの事業年度の法人税について、真実の所得金額が別表(一)の被告人会社の修正損益計算書記載のとおり二、七〇五万九〇四円で、これに対する法人税額が九五四万三、三二四円であるのに公表経理上架空仕入を計上するほか、受取利息を除外する等の不正の行為により右所得の一部を秘匿したうえ、昭和四一年一一月三〇日、同市広島一丁目一〇番一〇号所在の宮崎税務署において、同税務署長に対し、所得金額が五二六万九、九八八円で、これに対する法人税額が一七〇万二、一六四円である旨の虚偽の所得額及び税額を記載した法人税確定申告書を提出し、もって、不正の行為により右事業年度の法人税七八四万一、一六〇円を免れ、

二、被告人会社の昭和四一年一〇月一日から昭和四二年九月三〇日までの事業年度の法人税について、真実の所得金額別表(二)の被告人会社の修正損益計算書記載のとおり五、二五四万五、三一一円で、これに対する法人税額が一、八一八万七五〇円であるのに、公表経理上架空仕入を計上するほか、受取利息を除外する等の不正の行為により所得の一部を秘匿したうえ、昭和四二年一一月三〇日、前記宮崎税務署において、同税務署長に対し、所得金額が九三七万二、三九九円で、これに対する法人税額が三〇七万二〇〇円である旨の虚偽の所得額及び税額を記載した法人税確定申告書を提出し、もって、不正の行為により、右事業年度の法人税一、五一一万五五〇円を免れ、

第二  被告人大野は、会社役員をするかたわら、個人でも金融業を営んでいたものであるが、

一、昭和四二年中のその所得税の一部を免れようと企て、同年中の所得税について、真実の総所得金額が別表(三)の被告人大野の修正損益計算書記載のとおり三、七二七万七五一円で、これに対する所得税額が二、〇二七万六、〇〇〇円であるのに、貸金仲介手数料の大部分を除外する不正の行為により所得の一部を秘匿したうえ、昭和四三年三月一三日前記宮崎税務署において、同税務署長に対し、総所得金額が二二七万一、七五一円でこれに対する所得税額が三七万七、八〇〇円(公訴事実記載の税額三一万八、一〇〇円は源泉徴収税額を差引いたもの)である旨の虚偽の所得額及び税額を記載した所得税確定申告書を提出し、もって不正の行為により右年度の所得税一、九八九万八、二〇〇円を免れ、

二、宅地造成事業を営んでいた中村勇夫から赤江農業協同組合にいわゆる導入預金の斡旋依頼を受けるや、岡勢隆平と共謀のうえ、

(一) 昭和四二年四月一九日、同市大字田吉一五六番地所在の右農協事務所において、右岡勢が右農協に三、〇〇〇万円の定期貯金(松川浩子名義で一、五〇〇万円、松川嘉子名義で五〇〇万円、石川六郎名義で一、〇〇〇万円)をするに際し、当該貯金に関し、正規の利息のほかに特別の金銭上の利益を得る目的で、右中村と通じ、右農協(行為者参事植木忠義及び管理課長谷口秀精)を相手方として、当該貯金に係る債権を担保として提供することなく、右農協(行為者前同)が被告人大野及び中村を介して右岡野の指定する右中村に対し三、〇〇〇万円の融通をなすべき旨の約束を交わし、もって、当該貯金に関して不当の契約をし

(二) 同月二五日、右農協事務所において、右岡勢が右農協に三、〇〇〇万円の定期貯金(松川浩子、松川鶴子及び須田十敏名義で各一、〇〇〇万円)をするに際し、当該貯金に関し、正規の利息のほかに特別の金銭上の利益を得る目的で、右中村と通じ、右農協(行為者前同)を相手方として、当該貯金に係る債権を担保として提供することなく、右農協(行為者前同)が被告人大野及び右中村を介して右岡勢の指定する右中村に対し三、〇〇〇万円の融通をなすべき旨の約束を交わし、もって、当該貯金に関して不当の契約をし

たものである。

(証拠の標目)

以下、公判回数の表示につき、昭和四三年(わ)第二一五事件のみの公判期日については算用数字を、その余の公判期日につは漢数字をそれぞれ用いる。

判示第一の一、二及び第二の一の各事実につき

一、第四六回公判調書中の被告人大野惟孝の供述部分

一、被告人大野惟孝の検察官に対する昭和四五年一一月一七日付(七枚綴)及び同月一八日付(三枚綴)各供述調書

一、被告人岩切博盛の大蔵事務官に対する昭和四四年二月三日付質問てん末書

一、証人谷口秀精の当公判廷(第六七回公判期日)における供述

一、第三一回、三二回、三四回及び三六乃至四五回判調書中の証人谷口秀精、第三五回公判調書中の証人植木忠義及び同巽千枝子、並びに第四六回公判調書中の証人岡勢隆平の各供述部分

一、中村勇夫の検察官に対する昭和四四年一一月一二日付供述調書

一、中村勇夫の大蔵事務官に対する昭和四四年七月二四日付、同月二五日付、同月二六日付、同月二七日付及び昭和四五年九月三日付各質問てん末書

一、中村勇夫作成の昭和四五年八月二〇日付上申書

一、近藤康夫(証明書番号18、検察官証拠請求順一連番号三六三。以下、証明書につき右各番号を同様に数字だけで表示する。)、有村覚(27、三六四、28、三六六、29、三七〇)、福田渉(7、三七五、8、三六五)、中村秀一(30、三七六、31、三六七、32、三六八、33、三七二、34、三七九、35、三七一、37、三七三)、蓮井敏一(46、三六九)、安井惣一郎(176、三八〇)、川野周平(51、三七四)、野本稔(60、三八一、61、三八二)、川俣勝嗣(40、三七七)、永沼益夫(49、四一九)及び三島禎一(48、三八三)作成の各証明書

一、押収してあるメモ二枚(昭和四五年押第四一号の六〇)、普通貯金通帳一通(同押号の六四)、普通貯金元帳合計三枚(同押号の六五の一及び二並びに九〇)、貯金元帳合計六枚(同押号の六七、六九、七〇、七二、八四及び八九)、証明貸付伝票綴合計五冊(同押号の六八、七一、七三、七四及び九一)、定期貯金証書一冊と六枚(同押号の七五乃至八一)、現金伝票綴合計五冊(同押号の八二、八三、八六、八七及び八八)及び備忘帳一冊(同押号の八五)

判示第一の一、二の各事実につき

一、被告人岩切博盛の当公判廷(第六五回公判期日)における供述

一、第一六回公判調書中の被告人岩切博盛の供述部分

一、被告人岩切博盛の検察官に対する昭和四四年一一月五日付供述調書

一、第一六及び第一八回公判調書中の証人甲斐則一の各供述部分

一、証人小林文治、同西村利光、同磯崎良一、同妻木龍雄及び同服部盛隆に対する各尋問調書

一、第六及び第一四回公判調書中の検証の結果と題する部分

一、山下こと岩切桂子(昭和四四年一一月二八日付)及び田代佳世子(同月一九日付)の検察官に対する各供述調書

一、広重清(67、六七)及び近藤康夫(11、四六〇、12、六九の二通)作成の各証明書

一、甲斐則一及び富永欣一作成の各鑑定書

一、検察事務官作成の昭和五五年七月二四日付捜査報告書

一、宮崎地方法務局登記官作成の商業登記簿謄本四通

一、押収してある仕入帳一冊(昭和四五年押第四一号の二)、領収証三枚(同押号三乃至五)、買掛金振替伝票綴四冊(同押号の七乃至一〇)、納品書綴一冊(同押号の一一)、手形受払帳一冊(同押号の一四)、証と題する書面八九枚(同押号の一五)、伝票綴三冊(同押号の一六乃至一八)

判示第一の一の事実につき

一、押収してある元帳四冊(昭和四五年押第四一号の一、五〇、一〇三及び一〇五)、法人税決定決議書綴一冊(同押号の一三)、確定申告書一綴(同押号の六一)及び賞与明細書綴二冊(同押号の一〇七及び一〇八)

判示第一の二の事実について

一、第二三回公判調書中の証人矢崎誠一郎及び同釘村重治並びに第二六回及び二八回公判調書中の証人川崎ミサの各供述部分

一、滝口由子、布施和子及び太田喜市の検察官に対する各供述調書

一、宮越竹行、加島捨蔵、田中久夫、壱岐悦子、長友政明、長友藤夫及び岩崎義次の大蔵事務官に対する各質問てん末書

一、川崎重仁作成の上申書

一、田中久夫作成の証明書

一、押収してある法人税決定決議書綴一冊(昭和四五年押第四一号の一三)、内海到着明細二冊(同押号の三一及び三二)、丸鋼受払帳一冊(同押号の三三)、仕入帳綴四冊(同押号の三四及び三五)、売掛帳六冊(同押号の三六、四六、四七、四八及び四九)、納品書綴九冊(同押号の三七乃至三九、一一四、一一七、一二九及び一三一乃至一三三)、請求書綴三綴(同押号の四〇乃至四二)、領収書綴二綴(同押号の四三及び四四)、買掛金領収書綴一綴(同押号の四五)、元帳三冊(同押号の五〇、一〇四及び一〇六)、確定申告書一綴(同押号の六一)、駅到着丸鋼明細(同押号の六六)、雑書類一袋(同押号の一一〇)、売上伝票綴二綴(同押号の一一五及び一一六)、買掛金月報綴一綴(同押号の一一八)、メモ帳冊(同押号の一二三)及び注文書綴一綴(同押号の一二四)

判示第二の一及び同二の(一)、(二)の各事実につき

一、第四七回、四八回及び五〇回公判調書中の被告人大野惟孝の各供述部分

一、被告人大野惟孝の検察官(昭和四三年一〇月一八日付)及び司法警察員(同年九月一〇日付、同月一一日付二通)に対する各供述調書(判示第二の一の事実については謄本)

一、中村勇夫の検察官に対する昭和四三年一〇月一七日付供述調書(判示第二の一の事実については謄本)

判示第二の一の事実につき

一、被告人大野惟孝の検察官に対する昭和四五年一一月一五日付(二通)、同月一七日付(四枚綴)及び同月一九日付(書証番号二一の表示があるもの)各供述調書

一、宮崎税務署長丸田重広作成の所得税確定申告書の写及び所得税修正申告書の写

一、押収してある赤江農協関係メモと記載した小封筒(昭和四五年押第四一号の九五の一)及び右封筒入りメモ(同押号の九五の二)

判示第二の二の(一)、(二)の各事実につき

一、第四六回公判調書中の被告人大野惟孝及び証人岡勢隆平の各供述部分

一、第三四回公判調書中の被告人大野惟孝の供述部分

一、第三四回及び三七回公判調書中の分離前の共同被告人岡勢隆平の各供述部分

一、第二二回、二五回、三一回及び三七回公判調書中の証人谷口秀精の各供述部分

一、第三一回公判調書中の証人植木忠義の供述部分

一、岡勢隆平(昭和四三年一〇月一六日付、同月一八日付)、谷口秀精(同月二二日付)及び植木忠義(同年一二月九日付)の検察官に対する各供述調書

一、串間明夫の司法巡査に対する昭和四三年九月一六日付供述調書

一、押収してある貸付金(証書)伝票綴一綴(昭和四九年押第一四号の三七)

判示第二の二の(一)の事実につき

一、押収してある定期貯金証書三枚(昭和四九年押第一四号の一六乃至一八)

判示第二の二の(二)の事実につき

一、押収してある定期貯金証書三枚(昭和四九年押第四号の一九乃至二一)

(争点についての判断)

第一判示第一の一の事実に関する昭和四六年三月二三日付訴因変更請求書に基づく訴因変更の適否について

被告人会社及び被告人岩切の弁護人らは、検察官の右請求書に基づく訴因変更は、起訴当初の訴因を構成する逋脱所得の内容とは無関係の受取利息の除外を逋脱所得に追加するもので訴因変更制度の趣旨に反するし、当該起訴から約一年四月を経て既にその事件の公訴時効期間相当の年月も経過した後の請求によるものである点で公訴権の濫用にわたるものである、しかも、その事件の起訴当時に、検察官が被告人岩切及び右弁護人らに対し当該事業年度の所得税法違反事件についてはその起訴によってすべての検察処理を終了したと言明したので、弁護人らとしては右検察官の言明を信じてその弁護活動を行ってきたのであるから、信義則に反する訴訟行為でもあって、もともと許されるべきものではなかったと主張する。

ところで、右訴因変更が起訴当初の訴因を構成する逋脱所得の内容と関係のない事項の逋脱所得を訴因に追加したものであることは右弁護人ら主張のとおりであるが、これは、同一事業年度における逋脱所得の追加で同一公訴事実内での訴因変更であるから、何ら訴因変更制度の趣旨に反するものでない(逆にたとえ公訴時効期間の経過前であっても、右訴因に追加された逋脱所得だけを取りあげての追起訴は許されない。)。次に、右訴因変更請求の時期についても、その経過は右弁護人ら主張のとおりであり、しかも、右訴因変更請求は、これにより追加された逋脱所得である受取利息の除外と一連の関係にある受取利息の除外を逋脱所得の内容の一つとする被告人会社の次事業年度の法人税逋脱事件(判示第一の二)の追起訴からも約四月後になされたのであって、右訴因変更手続における検察官の怠慢は非難されねばならないが、右訴因変更は、新たにその訴因に追加された逋脱所得である受取利息の除外そのものに関してはもとより、これと一連の関係にある次事業年度の受取利息の除外(判示第一の二の事実関係)についても、いまだその関係の証拠調べに着手しない段階でなされたのであるから、その手続の遅延によって弁護人らの防禦権の行使にさしたる影響を及ぼさなかったことは本件審理の経過に徴して明らかであり、検察官の右訴因変更請求は、いまだ公訴権の濫用にわたるものとはいえない。そして右弁護人ら主張の信義則違反の点についても、その主張のような検察官の言明があったか否かについては、その事実の存否を確認するに足る資料はないが、前記のとおり右訴因変更が審理の経過上その変更後の訴因についての弁護人の防禦権の行使にさしたる影響を及ぼさないような手順のもとになされたものと認められるのであるから、その主張のような検察官の言明があったか否かにかかわらず、右弁護人らの主張に従うことはできない。以上のとおりで、右訴因の変更は正当として是認できる。

第二判示第一の各事実に関する税務行政上の更正処分及び再更正処分の取消処分の影響について

被告人会社及び被告人岩切の弁護人佐々木曼及び塚田善治は、宮崎税務署長のなした判示第一の一の事実に対応する税務行政上の更正処分及び再更正処分並びに判示第一の二の事実に対応する同様更正処分が、昭和四九年一一月一九日熊本国税不服審判所の裁決により取消され、税務行政上、右各事実に関する被告人会社の法人税額は、いずれも判示法人税確定申告書記載のとおりに確定したのであるから、右各事実に関しては、その保護法益とされる検察官主張の各逋脱所得に対しての国の課税権がもとよりなかったことに帰し、刑事訴訟法にいう被告事件が罪とならないときに該るので無罪であると主張する(同弁護人らの昭和五〇年七月一七日付申立書)。

ところで、右各更正処分及び再更正処分が国税不服審判所の裁決によって取消され、税務行政上その各事業年度の被告人会社の法人税額が判示法人税確定申告書記載のとおりに確定したことは、右申立書及びその添付の国税不服審判所長海部安昌作成の裁決所謄本の写によって認められるが、右裁決所謄本の写によると、右各更正処分及び再更正処分の取消は、もっぱらこれらの原処分の手続上の過誤によるものであり、また、右取消裁決後にこれらにつき改めて更正処分がなされなかったのは、既に租税債権の消滅時効が完成してしまっていたからであることが明らかであって、判示のとおり被告人会社の右各事業年度における所得の逋脱が認められる以上、被告人会社において右各逋脱所得を除外した法人税確定申告書を提出し、その後これについて修正申告もしないでその各法人税の納期を徒過したことにより、それぞれ逋脱所得に対する国の課税権を侵害したものとして判示の各脱税犯が成立することは明白である。従って、右弁護人らの主張は採用できない。

第三判示第一の各事実に関する青色申告承認取消処分の取消の影響について

被告人会社及び被告人岩切の弁護人倉井藤吉は、被告人会社の判示各法人税確定申告は青色申告によるものであったが、宮崎税務署長は、昭和四四年一一月二一日右青色申告の承認を昭和四〇年一〇月一日以降の事業年度に遡って取り消したものの、その後昭和四九年九月一三日右青色申告承認取消処分を取り消したので、判示各法人税確定申告は依然青色申告によるものになったところ、青色申告制度は、納税者と国との間で納税者の経理帳票の記録、保管等について信頼関係が形成されたいることを前提とするものであるので、青色申告による限りたとえ納税者の経理帳票上に所得の隠ぺいがあっても、国が青色申告の承認を取り消さずに、その隠ぺいされた所得につき課税権を行使することは許されないと考えられるから、右判示各事実は罪とならず、無罪であると主張する。

しかしながら、被告人会社の判示第一の各事実に関する事業年度について青色申告の承認が維持されたことは右弁護人主張のとおりであるにしても、青色申告の承認の維持により逋脱所得に対する国の課税権の行使が制限される理由はないから、右弁護人の主張は到底採用できない。

第四判示第一の各事実に関する受取利息の除外について

一、被告人会社が被告人大野を介して中村勇夫(以下、単に中村ともいう。)に対し簿外貸付けをしたことによる受取利息の除外について

この点につき、被告人岩切及びその弁護人らは、「中村勇夫に対しては昭和四三年四月から八月までの間に四回にわたり合計二、九〇〇万円を被告人岩切が個人資産により貸付けたことがある以外には、直接にも間接にも同人被告人会社は勿論のこと被告人岩切個人も金銭を貸付けた事実はない。もっとも、被告人会社は赤江農業協同組合に対し別表(六)のとおり預金をして同農協から利息を受領した事実はあるが、これは、将来、同農協より園芸用ハウスの資材である鋼材を買ってもらうためにいわゆる協力預金をしたものであって、同農協を通じその預金を右中村に貸付けるためにしたものではない。」と主張し、被告人大野も、右主張に副うように、被告人会社から中村への貸付の仲介をしたことはないし、その関係の利息も受け取っていないと主張する。

これに対し、前掲関係の中村勇夫の大蔵事務官に対する各質問てん末書及び同人の検察官に対する供述調書(以下、中村の各供述調書という。)によれば、ほぼ検察官の主張のとおり、中村勇夫と被告人会社との間で各金銭貸借が存在し、これに対する利息が支払われたというのである。

右の被告人岩切、同大野の主張と、中村勇夫の前掲各供述調書の記載内容と比較して、いずれが信用できるか、これらだけを比較しても容易に決定し難い。珠に、中村勇夫は、本件公判中の昭和四八年一二月六日死亡したため、右中村の前掲各供述記載の内容は、全く弁護人の反対尋問にさらされないままになっていることを考慮しなければならない。

ところで、右中村の各供述調書によれば、前記のとおり、被告人会社と中村との間で金銭の貸借が反復して行われ、それに対する利息が中村から被告人会社に支払われたというのであるが、右のうち、被告人会社から中村への各金銭の貸付自体は、赤江農業協同組合の管理課長をしていた谷口秀精(以下、単に谷口ともいう。)が被告人会社代表者の被告人岩切から小切手又は現金を受け取る方法で行われ、貸付元本の返済も右谷口が仲介して現金で被告人岩切に返済していたというのであり、貸付元本の授受、返済に関して中村と被告人岩切との間に全く接触がなかったという一見奇妙とも思える供述内容となっているし、更に、その利息の支払いに関しても、右中村は前記金銭貸借の実現について仲介、斡旋した被告人大野に現金を託して約定どおりの利息を支払ってきたことから、これまた中村と被告人岩切との間に接触がなかったというのである。そして、これは、当初、中村が被告人大野に融資を頼んだ際、被告人大野は、右中村に対し被告人岩切から融資金を出させる旨約束し、被告人岩切と交渉した結果、被告人会社としては、融資金は出すが裏金であるし、金額が多いから、直接中村に融資することはできないということで、被告人会社が赤江農協に預金をし、その預金された金員を中村が融資を受けるということで話し合いがつき、その結果、被告人会社から中村への融資は、始めは被告人会社から赤江農協への預金という形式を利用して行われたことから、前記のとおり、赤江農協の谷口管理課長が被告人岩切から小切手や現金を受け取っていたのであり、一方、融資元本の返済も右谷口を通して被告人岩切へなされていたというのである。従って、中村は被告人岩切と直接会わず、仲介者の被告人大野と具体的な融資の依頼、利息の支払い方法、利率などについての話し合いをし、その陸奥、裏利息の支払いも中村から被告人大野に手渡して支払われていたというのである。

右のとおりであるから、被告人岩切及びその弁護人らの主張は、中村の各供述調書の記載内容と全く相反し、被告人会社は赤江農協に預金したにすぎず、それを中村に融資するとの話は全くなかったし、勿論被告人岩切もそのようなことを了解しておらないというのである。そこで、借主の中村によれば、前記のとおり、被告人会社からの融資の事実を認め、その貸付金はすべて赤江農協の管理課長谷口秀精を介して、受領し、かつ、返済も右谷口に託して行われてきたということであるから、この点についての証人谷口秀精の証言内容及びその信用性が重要な論点となるのであり、ひいては中村の各供述調書の内容の信用性についての判断資料となることから、まず証人谷口秀精の供述部分についてその内容と共に信用性を検討していき、本件融資の存否について判断することにする。

(一) 本件融資についての赤江農協側の認識について

証人植木忠義の供述部分によれば、当時、証人植木は赤江農協の参事の地位に就いていたこと、昭和四〇年一〇月一五日被告人会社が初めて赤江農協へ一、五〇〇万円を三か月定期として預金したが、この預金については、被告人会社から中村への融資がからんでいて、中村は被告人岩切に信用がなかったことから、被告人会社から中村への融資は、融資金を一旦被告人会社から赤江農協へ預金した形をとり、それを中村へ貸付けるということで、赤江農協はこれを了解して右預金を受け入れたこと、右のいきさつについては、同日以前に同農協の組合長も混えて関係者間で相談されていたことが認められ、また、証人谷口秀精の供述部分によれば、同人は、赤江農協の管理課長であったが、被告人会社から右一、五〇〇万円の定期預金がなされる前に同農協の佐々木組合長や大田理事から前記相談が行われた新名旅館に呼ばれ、預金者の被告人会社と中村との間で話合いがついたので、被告人会社が預金した金銭を中村に融通するようにとの指示を受けたこと、そこで、昭和四〇年一〇月一五日の右預金分一、五〇〇万円については、被告人岩切が同農協へ持参したが、その後には、中村が被告人大野を通じて被告人会社の代表者である被告人岩切と話をつけたのち、中村からの連絡により、また時には被告人岩切からの連絡によって、右谷口が被告人会社の事務所に赴き、その際殆ど中村の自動車で行っても谷口だけが事務所の中に入り、谷口が被告人岩切から同被告人が預金と主張する現金や小切手を受け取っていたこと、このように被告人岩切らが被告人会社からの赤江農協に対する預金であると主張する被告人岩切より右谷口に手渡された現金や小切手は、実際には、中村が被告人会社から借りたものであるから中村の指示に従って処理していたというのである。

右のとおり、証人植木は赤江農協の参事であり、証人谷口は同農協の管理課長で、いずれも公的金融機関たる赤江農協の重要な地位にあったが、被告人岩切らが被告人会社からの赤江農協に対する預金であると主張する現金や小切手の授受は、被告人会社から中村への融資の手段としてなされていたとの認識に立っていたのであり、このことは、同農協の組合長や理事らも承認していたことが認められるうえ、現に右の谷口が被告人岩切から受取った現金や小切手が中村の使途のために処理されていたこと(このことは後記で詳細に認定する)とを考え合わせれば、いやしくも、公的金融機関たる赤江農協が、特定の大口預金者なる被告人会社から受取った預金なるものを、そのまま特定の第三者、すなわち中村勇夫への融資に向けることはその預金者なる者の同意なしには到底できることとは考えられず、この一事をもってしても、被告人会社と中村との間に融資の取引が全くなかったとする前記被告人岩切らの主張はおよそ信用し難く、右谷口は以上のような立場、認識のもとに被告人会社から中村への本件融資に介在したものと認められる。そこで、以下、検察官主張の個々の融資取引について検討していく。

(二) 被告人会社から中村に対する融資元金の流れについて

(1) 昭和四〇年一〇月一五日の一、五〇〇万円の貸付

昭和四〇年一〇月一五日に一、五〇〇万円を被告人会社が赤江農協に預金したことは、被告人岩切もこれを認めているが、これは単に赤江農協に対する三か月定期預金をしたものであって、中村に対する融資のためのものではないと主張していること前記のとおりである。

なるほど、証人谷口の供述部分によっても右一、五〇〇万円の預金に関しては、赤江農協は、そのうち一、三五〇万円については被告人会社の、一五〇万円については岩切正富名義の、各三か月定期預金として扱い、それに見合う定期貯金証書(昭和四一年押第四一号の七五)も発行していることが認められるが、更に、右供述部分によると、被告人岩切が赤江農協へ右預金のために持参してきた金種は、被告人会社振出の一、三五〇万円の小切手(18、三六三)と現金一五〇万円であるところ、右一、五〇〇万円のうち一、〇〇〇万円を、赤江農協から中村に川崎重逸名義で貸付けるとの事前の約定に基づいて、谷口は、同日、右の一、三五〇万円の小切手を中村に手渡し、中村自身に右小切手を換金させ、貸付金一、〇〇〇万円を差し引いた残りの三五〇万円を中村から受け取り、結局右約定どおり一、〇〇〇万円を中村に貸付けたということである。

一方、中村の前掲各供述調書によれば、中村は、同日、谷口から被告人会社振出の一、三五〇万円の小切手を預り、被告人大野の自動車で被告人大野と二人で、宮崎銀行橘通支店へ行き、そこで右小切手を換金して、その足で旭相互銀行宮崎支店へ行き、同銀行前の自動車の中で、被告人会社が出捐した右一、五〇〇万円に対する月五分の割合による三か月分の利息二二五万円を右一、三五〇万円の中から被告人大野に手渡し、残金一、一二五万円の内から八〇〇万円を旭相互銀行宮崎支店の通知預金とし、残金三二五万円に手持の二五万円を加えて三五〇万円を谷口に手渡したということである。

ところで、右のとおり、中村が川崎重逸名義で赤江農協から一、〇〇〇万円を借受けたことは、証書貸付金伝票綴(同押号の六八)の中にある昭和四〇年一〇月一五日、川崎重逸に対し一、〇〇〇万円を貸付けた旨の記載によってこれが認められるうえ、右一、三五〇万円の小切手(18、三六三)には、同日付の宮崎銀行橘通支店の出納印が押され、右小切手の裏面には、中村自身の筆跡による裏書がなされていること(それが中村の筆跡であることは、中村の各供述調書によって認められる。)、旭相互銀行宮崎支店の中村紘和名義の通知預金元帳(27、三六四)には、同日付で八〇〇万円の通知預金がなされた旨記載されている。

右のとおり、証人谷口のこの点についての供述部分は、中村の前掲各供述調書とよく符号するほか、摘示の他の書証ならびに証拠物によってもこれを裏付けることができ、以上のとおりで、中村は、昭和四〇年一〇月一五日、被告人会社からの赤江農協に対する右一、五〇〇万円のいわゆる導入預金により、赤江農協から一、〇〇〇万円の貸付を受けたことが認められる。

(2) 昭和四一年一月一四日の一五〇〇万円の返済

昭和四一年一月一四日に赤江農協から被告人会社へ右(1)記載の各定期預金の満期による一、五〇〇万円の返済がなされたことは、被告人岩切もこれを認めるところであり、前掲定期預金証書(同押号の七五)にも同日付で払戻し済との印が押捺されている点をみれば、右事実は明らかである。

ところで、右の返済は、前記(1)で、被告人会社が合計一、五〇〇万円を三か月の定期預金をした、その満期日到来による赤江農協の支払いであることは、証人谷口の供述部分ならびに中村の各供述調書によって明らかであり、中村がその貸金を用立てて返済したものではない。

なお中村は、前記(1)で認定したように、川崎重逸名義で赤江農協から一、〇〇〇万円を借受けていたのであるが、これの赤江農協に対する返済については、証人谷口の供述部分によれば、証書貸付金伝票綴(同押号の六八)に記載されているように、昭和四一年二月二八日に五〇一万七八五円、三月九日に四八万九、二一五円、三月三一日に残元金四五〇万円と利息三七万九、六〇〇円が支払われているが、右のうち、昭和四一年二月二八日の五〇一万七八五円、三月九日の四八万九、二一五円は、いずれも中村勇夫の預金である中村紘和名義の赤江農協の貯金(貯金元帳同押号の六九)から支払われており、昭和四一年三月三一日の元金四五〇万円と利息三七万九、六〇〇円は、後記認定の昭和四一年三月三一日に中村が被告人会社から借受けた一、〇〇〇万円の内から、右合計四八七万九、六〇〇円が支払われたということであり、これについては、被告人会社の普通預金元帳(同押号の六五の一)の昭和四一年三月三一日欄の記載によって裏付けられていて、中村の各供述調書によっても、同様に、後記認定の昭和四一年三月三一日に被告人会社から借受けた一、〇〇〇万円の内より赤江農協への川崎重逸名義借入金返済および利息として四八七万九、六〇〇円が支払われている旨認めることができる。

(3) 昭和四一年三月三一日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、昭和四一年三月三一日、中村が被告人会社から一、〇〇〇万円を借入れることになり、谷口は被告人岩切から、被告人会社振出の九〇〇万円の小切手及び現金一〇〇万円の合計一、〇〇〇万円を受取り、内九〇〇万円を被告人会社名義の赤江農協の普通預金とし、他の一〇〇万円を山下哲夫名義の赤江農協の普通預金とした旨供述しており、右を裏付けるものとして、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)の中村にある右小切手の写、被告人会社名義の普通預金元帳(同押号の六五の一)、福田渉作成の証明書(8、三六五)が存在し、これらによって右一、〇〇〇万円の授受の事実を認めることができる。

更に、証人谷口の供述部分によれば、被告人会社名義の普通預金元帳(同押号の六五の一)の記載のうち、昭和四一年三月三一日付借方四八七万九、六〇〇円は前記(2)のとおり、中村が川崎重逸名義で赤江農協から借受けた残元金四五〇万円とその利息三七万九、六〇〇円の合計四八七万九、六〇〇円の支払いに充てられたものであること、同年四月二日付借方一〇〇万円は、中村の赤江農協の仮名預金である中村紘和名義の貯金元帳(同押号の六九)の同日付貸方一〇〇万円(岩切博盛ヨリ)の項に入金されていること、同様の中村紘和名義の貯金元帳(同押号の七〇)に同年四月二三日付(同月二一日に処理)で借方一一一万八、一〇〇円とあるが、その内の一一万八、一〇〇円が被告人会社名義の普通預金元帳(同押号の六五の一)に同日付で入金されており、また、被告人会社名義の右普通預金の利息七七八円が、右中村紘和名義の貯金元帳に入金処理されて、右被告人会社名義の普通預金元帳は閉鎖となっているというのであり、この事実は右のとおり証拠物によっても、それを裏付けられる。このことは、被告人会社名義の赤江農協に対する右普通預金が中村のために費消されていた事実を示すものであって、これは、とりもなおさず、中村が被告人会社から右の一、〇〇〇万円を借受けたとの検察官の主張を裏付けるものである。

一方、中村の各供述調書には、昭和四一年三月三一日被告人会社から谷口を通じて一、〇〇〇万円を借入れ、同日赤江農協の預金に預け入れたが、その内訳は谷口でないとわからないものの、右一、〇〇〇万円の使途につき、(イ)同農協からの川崎重逸名義での借入金四五〇万円及びその利息三七万九、六〇〇円を返済し、(ロ)中村名義の旭相互銀行の通知預金へ三〇〇万円を預け入れ、(ハ)土地代として横山ほか一名へ一七八万八、五〇〇円を費消した旨の記載がある。右(イ)については、既に述べたとおり、その真実性を十分認めることができる。(ロ)については、有村覚作成の証明書(27、三六四)によれば、中村紘和名義の旭相互銀行宮崎支店の通知預金元帳には、昭和四一年四月四日一〇〇万円、同月五日一〇〇万円が入金された旨の記載があること、前掲被告人会社の貯金元帳(同押号の六五の一)にも、右に対応して、同月四日借方に二〇〇万円の記載があること、前掲山下哲夫名義の貯金元帳(8、三六五)にも、同月五日借方に一〇〇万円の記載があることによって、右(ロ)の事実が真実であることが認められる。また、(ハ)については、前掲被告人会社の貯金元帳(同押号の六五の一)には、その昭和四一年四月二日欄に中村紘和へ、借方一〇〇万円との記載、同月四日観正毅へ、借方七八万八、五〇〇円との記載があり、更に中村紘和名義の貯金元帳(同押号の六九)の同月二日欄に「岩切博盛ヨリ」貸方一〇〇万円、また、その同日欄に横山己則へ借方一〇〇万円との記載があって右合計が一七八万八、五〇〇円となるところから、前記(ハ)の事実を裏付けるものということができる。

以上のとおり、いずれからみても、被告人会社から赤江農協に対する右の一、〇〇〇万円の預金は、中村のために費消されていた事実を認めることができ、この点に関する証人谷口の供述部分ならびに中村の各供述調書の各記載は、他の証拠によって裏付けられ、その信用性を十分認めることができ、これらによって、被告人から中村への右一、〇〇〇万円の貸付の存在が認められる。

(4) 昭和四一年四月一九日の一、〇〇〇万円の返済及び同月二〇日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、右の一、〇〇〇万円の返済と貸付は、いわゆる切り替えであるが、右返済については赤江農協側が中村に代って一時立て替えてやることにし、昭和四一年四月一九日県信連の赤江農協名義の預金から現金一、〇〇〇万円を払い戻して、それを被告人会社に返済し、翌日の同月二〇日、被告人会社振出の七〇〇万円の小切手及び現金三〇〇万円の合計一、〇〇〇万円を被告人岩切から受取って、それを右県信連の赤江農協名義の預金に預入れた旨供述するが、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)には、右の県信連の赤江農協の預金について、昭和四一年四月一九日現金一、〇〇〇万円が払出されていること、及び同月二一日(起算日四月二〇日)現金一、〇〇〇万円が預け入れられている旨の記載があること、更には、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、被告人会社振出の七〇〇万円の小切手が存在することから、右谷口の供述部分は十分信用できる。

なお、中村の前掲各供述調書によれば、昭和四一年四月一九日の一、〇〇〇万円の返済と同月二〇日の一、〇〇〇万円の借入れは切替えであること、谷口に資金作りをお願いし、谷口は農協の金を一時立替えてくれたと思うこと、四月二〇日被告人会社から小切手七〇〇万円と現金三〇〇万円を借入れ、これを立替分の返済に充てた旨の記載があり、谷口の供述部分ともよく符合する。

以上によって、右の一、〇〇〇万円の返済と貸付の事実も認められる。

(5) 昭和四一年四月二一日の二、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、谷口は、同日、被告人岩切から被告人会社振出の小切手額面五四〇万円と現金一、四六〇万円を受領し、右小切手五四〇万円を現金化するため、赤江農協名義の旭相互銀行宮崎支店の通知預金七〇〇万円を解約したうえ、まず三〇〇万円を赤江農協の中村の仮名預金である中村紘和名義の預金に入金し、二、〇〇〇万円の残りの一、七〇〇万円を現金で中村勇夫に手渡し、右小切手五四〇万円と通知預金を解約した残金一六〇万円の合計七〇〇万円を赤江農協の県信連の預金口座へ預金した旨供述している。

右小切手については、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)にその写が存在し、また、その小切手の写の裏面には赤江農協の裏書及び県信連の出納印があることから、右小切手が県信連へ預金された事実を認めることができる。また、有村覚作成の証明書(29、三七〇)によれば、昭和四一年四月二一日、五〇〇万円と二〇〇万円の合計七〇〇万円が赤江農協名義の旭相互銀行宮崎支店の通知預金から払い出されていることが認められ、更には、前記の中村紘和名義の貯金元帳(同押号の七〇)によれば、同月二三日(起票四、二一)に同預金に三〇〇万円が入金されており、また、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、同月二五日(起票四、二三)に赤江農協が県信連へ九〇一万一、八八五円を預金した事実が認められ、前記証人谷口の供述部分では、この九〇一万一、八八五円の中に、前記七〇〇万円の預金が含まれているというのであって、これらの証拠が右証人谷口の供述部分を裏付けている。

なお、中村勇夫の各供述調書では、右について、三〇〇万円を預金し、現金一、七〇〇万円を受取ったが、一、〇〇〇万円を宮崎建設開発株式会社へ土地代として支払い、他の七〇〇万円を中川満子などに対する土地代の支払い資金に充てた旨記載しており、右一、〇〇〇万円の使途については、安井惣一郎作成の証明書(176、三六〇)によってこれを認めることができるし、右三〇〇万円の預金及び現金一、〇〇〇万円の受領は、前記証人谷口の供述部分と符合する。

右のとおり、この点についても、証人谷口の供述部分は他の証拠による裏付があって、十分信用でき、以上によって、右二、〇〇〇万円の貸付の事実が認められる。

(6) 昭和四一年四月三〇日の一、〇〇〇万円の返済と同年五月一〇日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、昭和四一年四月三〇日県信連の赤江農協名義の普通預金から三〇〇万円及び七〇〇万円の合計一、〇〇〇万円を引き出して中村の借入金の返済として被告人会社に支払い、同年五月一〇日被告人岩切から被告人会社振出の小切手二〇〇万円及び現金八〇〇万円の合計一、〇〇〇万円を受取り、県信連の赤江農協の預金口座にこの一、〇〇〇万円を預金したと述べている。

ところで、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、昭和四一年四月三〇日現金三〇〇万円及び七〇〇万円が県信連の赤江農協の当座預金から払い出されており、同年五月一〇日に同預金に現金一、〇〇〇万円が入金されていることが認められるほか、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、右の被告人会社の振出の二〇〇万円の小切手が存在したことを認めることができ、証人谷口の右供述部分の信用性が裏付けられる。

なお、中村勇夫の各供述調書によれば、右の一、〇〇〇万円の返済と借入れは、いわゆる切替えであり、前記(4)と同様の方法で行った旨記載されており、その返済の立替資金を谷口に依頼して同人に処理してもらったことが窺える。

以上により、右の返済、貸付の事実も肯認できる。

(7) 昭和四一年五月三〇日の二、〇〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、右の返済に関しては、中村が自己資金に利用するため、新日本土木から赤江農協へ二、四〇〇万円を預金させ、これを定期に振替えて、赤江農協から新日本土木名義で二、四〇〇万円を中村が借受け、その二、四〇〇万円の内から二、〇〇〇万円を被告人会社への右返済に使用し、残りの四〇〇万円を赤江農協の中村紘和名義(これは中村勇夫の預金)に預金したということである。

永沼益夫作成の証明書(49、四一九)によれば、昭和四一年五月二〇日宮崎銀行の新日本土木株式会社名義の普通預金元帳から二、四〇〇万円が払出されていること、新日本土木の普通預金元帳(同押号の九〇)によれば、昭和四一年五月二一日二、四〇〇万円が赤江農協の同預金口座に預金され、同月三〇日これを定期預金にするために二、四〇〇万円が払出されていること、伝票綴(同押号の九一)によれば、同日右定期預金を担保として赤江農協から二、四〇〇万円が新日本土木へ貸出されていること、川野周平作成の証明書(40、三七四)によれば、五月三〇日に二、〇〇〇万円が赤江農協名義の宮崎銀行の普通預金から払出されていること、中村紘和名義の貯金元帳(同押号の七〇)によれば、五月三〇日に前記の中村紘和名義の赤江農協の預金に四〇〇万円が入金されたこと、以上の各事実が認められ、これらはいずれも右谷口の供述部分裏付けるものである。

また、中村の各供述調書にも、谷口の右供述部分と同旨の記載がなされていて、以上により右返済の事実を肯認できる。

(8) 昭和四一年六月二五日二、七五〇万円と同月二九日二五〇万円の各貸付(検察官主張の同月二五日の三、〇〇〇万円の貸付)

証人谷口の供述部分によれば、前記の中村が新日本土木名義で赤江農協から借りていた二、四〇〇万円の返済資金として被告人岩切から、昭和四一年六月二五日小切手で一、二五〇万円と現金で一、五〇〇万円を受け取り、同日、右借受金二、四〇〇万円及びその利息一五万六、〇〇〇円の返済資金に充て、更に、同月二九日被告人岩切から小切手で二五〇万円を受取り、これを宮崎銀行の赤江農協名義の預金に預け入れたということである。

近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、昭和四一年六月二五日被告人会社振出の一、二五〇万円の小切手、同月二九日被告人会社振出の二五〇万円の小切手がそれぞれ存在すること、メモ(名刺の裏)(同押号の六〇)によれば、証人谷口が、六月二五日の小切手一、二五〇万円及び現金一、五〇〇万円を受領した際に、それをメモに記載したという証人谷口の供述内容と符号する記載が存在し、これによって、同日、谷口が被告人岩切から右小切手一、二五〇万円のほかに現金一、五〇〇万円をも受取ったことは明白であること、川野周平作成の証明書(51、三七四)によれば、六月二七日二、七五〇万円、同月三〇日二五〇万円が、それぞれ赤江農協名義の宮崎銀行の普通預金に預金されていること、伝票綴(同押号の九一)によれば、前記のように赤江農協が新日本土木名義で中村に貸付けた二、四〇〇万円とその利息一五万六、〇〇〇円が、同月二五日に返済されたこと、以上の各事実が認められ、右は谷口の供述部分を十分裏付けるものである。

なお、中村の各供述調書によれば、金額一、二五〇万円及び二五〇万円の二枚の小切手と現金一、五〇〇万円の合計三、〇〇〇万円を六月二五日に被告人会社から借入れた旨記載があるが、右の証人谷口の供述部分のように、この内二五〇万円の小切手は同月二九日に受領したとする方が、前記の他の証拠物及び書証と照し合わせて、十分合理的であり、この点についての中村の供述には記憶違いが認められるが(この点、検察官の主張についても同様である。)、他の部分については、中村も証人谷口と同様の供述をしている。

以上によって、右各貸付の事実を肯認できる。

(9) 昭和四一年七月二九日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、昭和四一年七月二九日、被告人岩切から小切手六七〇万円と現金三三〇万円を受け取り、それを中村にそのまま渡したということである。

そして、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、被告人会社振出の右六七〇万円の小切手が存在することが認められる。

なお、証人谷口は、右一、〇〇〇万円の使途につき、宮崎信用金庫の中村紘和名義の普通預金に、同年七月三〇日に三〇万円と六七〇万円の合計七〇〇万円を預け入れられた(以上は、中村秀一作成の証明書33、三七二によって認められる)ほか、赤江農協の中村紘和名義の普通預金に同年八月一日二九〇万円が預け入れているが、これも右一、〇〇〇万円の一部である旨供述し、後記中村の供述調書の内容と異なる証言をしたが、証人谷口は、前記のとおりその証言で述べているように、右の小切手及び現金を中村にそのまま渡していて、その使途については中村の方が詳細に知っており、谷口はそれに関与していないことから、右一、〇〇〇万円の使途に関しては、証人谷口の証言は推測又は伝聞に及ぶ供述ということができ、証人谷口自身も、これを認め、中村の各供述調書と不一致の点については結局記憶がない旨供述している。

この点について、中村の各供述調書によれば、昭和四一年七月二九日、宮崎信用金庫の中村紘和名義の預金から、二二〇万円を払出し、同日谷口秀精から一八〇万円借受け、合計四〇〇万円の利息を被告人大野に支払い、同日被告人会社から小切手六七〇万円と現金三三〇万円の合計一、〇〇〇万円を借入れ、翌七月三〇日、小切手六七〇万円と現金三〇万円を宮崎信用金庫の中村紘和名義の預金へ預け入れ、残現金三〇〇万円と右預金から三七〇万円の保証小切手を振出し、その合計六七〇万円から、右の谷口秀精立替分の一八〇万円を支払い、その余り四九〇万円の内四八〇万円を、利息として、被告人大野に同日支払ったというものであり、中村秀一作成の証明書(33、三七二)によれば、中村紘和名義の宮崎信用金庫の普通預金に、昭和四一年七月三〇日、三〇万円と六七〇万円の各預金がなされ、同日三七〇万円払出されている事実が認められる。

なお、証人谷口の供述部分によれば、昭和四一年七月三〇日額面三七〇万円の宮崎信用金庫の保証小切手を中村が持参し、赤江農協で現金化したうえ、谷口の立替分一八〇万円を差し引いた残金を中村に渡した旨供述している。

以上を総合すると、谷口が被告人岩切から右の小切手及び現金合計一、〇〇〇万円を受取り、中村が、それを利息の支払い等自己の使途にあてたことは、谷口の供述部分と中村の各供述調書の内容、更には、前記の他の証拠と相俟って十分認めることができる。

(10) 昭和四一年九月二九日の二、〇〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、右の返済については、宮崎松竹株式会社へ中村と一緒に行って二、〇〇〇万円の融資方を依頼し、同会社から二、〇〇〇万円の保証小切手もらい、これを現金化して被告人会社に返済したということであり、これを裏付ける証拠として、野本稔作成の証明書(60、三八一、61、三八二)が存在する。

なお、右の小切手(60、三八一、61、三八二)をみると、裏面に宮崎銀行の交換印が、昭和四一年九月三〇日付で押印されていることから、現金化されたのは、三月二九日ではなくして九月三〇日であると被告人会社及び被告人岩切の弁護人は主張し、証人谷口も現金化されたのは、九月三〇日である旨証言している。小切手の振出日は九月二九日であることから、現金化されたのは、九月二九日か三〇日のいずれか定かではないが、いずれにしても、九月二九日か三〇日のいずれかに、右小切手が現金化されたことは事実として認められるところであり、いずれで認定するかによって、特に証人谷口の供述部分の信用性が減殺されるものではないことが明らかである。

この点に関して、中村の各供述調書によれば、当時、被告人大野から返済の催促を受けていたので、融資先を谷口に依頼し、谷口から宮崎松竹開発株式会社を紹介してもらい、同会社から二、〇〇〇万円の小切手を借り、これを現金化して被告人会社に返済したということであって、これは証人谷口の右供述部分と符号する。

以上によって、右返済の事実が認められる。

(11) 昭和四一年九月三〇日の二、〇〇〇万円の返済と同日の二、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述内容によれば、右の二、〇〇〇万円の返済と貸付は、いわゆる切替であること、その方法は、宮崎銀行の赤江農協名義の普通預金から二、〇〇〇万円を払い出してこれを被告人会社に返済し、その後、被告人会社振出の額面各一、〇〇〇万円の小切手二通(合計二、〇〇〇万円)を被告人会社から借入れ、それを県信連の赤江農協名義普通預金口座に預け入れたということである。

川野周平作成の証明書(51、三七四)によると、宮崎銀行の赤江農協名義の預金から、昭和四一年九月三〇日に二、〇〇〇万円が払出されていること、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、被告人会社振出の振出日同年九月三〇日、額面一、〇〇〇万円の小切手二通が存在し、そのいずれもが裏面の出納印で県信連にまわった小切手であること、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、県信連の赤江農協名義の普通預金口座へ同日付で二、二七九万五、二四〇円が預け入れられていること(証人谷口の供述部分によれば、この中に右借入の二、〇〇〇万円が含まれている旨の供述がある)がそれぞれ認められ、以上によって、前記証人谷口の供述部分を裏付けることができる。

なお、当初、証人谷口は、前記(10)との関係で、混乱した内容の供述をしていたが、のちになり、明確に前記(10)と本件の切替を区別して証言するに至り、また、前記のとおり他の証拠もこれを裏付けていることを考えれば、本件の切替についての証人谷口の供述部分は、十分信用できるといえる。

中村の各供述調書によると、この点について、本件の二、〇〇〇万円の返済と借入は、切替であり、その方法は、以前の切替と同様、資金調達及びその処理については、谷口に一任していたというもので、右証人谷口の供述部分と一致する。

以上によって、右の返済及び貸付の事実を肯認できる。

(12) 昭和四一年一〇月二四日の一、五〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によると、昭和四一年一〇月二四日被告人岩切から現金で一、五〇〇万円を受け取り、中村の預金である赤江農協の中村紘和名義の預金口座へ一、〇三三万七、一三三円を預金し、そのほか、中村が赤江農協から、土地の買収資金として他人名義で借りていた貸付金の元利金の返済として、横山己則名義の分五二万四八〇円、児玉好見名義の分五〇万八、六四〇円、串間摺一名義の分五〇万八、六四〇円、川越知名義の分、五〇万八、六四〇円、川越為男名義の分五〇万八、六四〇円、和田重治名義の分四〇万五〇〇円、谷口秀精名義の分一〇万一、三四四円(以上合計三〇五万六、八八四円)の支払いに充て、その余は中村がどのように使ったか知らないというのである。

赤江農協の中村紘和名義の貯金元帳(同押号の七二)によると、昭和四一年一〇月二四日、一、〇三三万七、一三三円が預け入れられていること、証書貸付金伝票綴(同押号の七一)によれば、横山己則ほか六名に対する合計三〇五万六、八八四円の貸付元利金の返済についての伝票綴が存在していること、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、昭和四一年一〇月二四日、県信連の赤江農協名義の当座預金に現金一、五〇〇万円が入金されていることの各事実が認められ、右谷口の供述内容に見合う現金が、赤江農協に入った事実を認めることができ、以上の各証拠は、証人谷口の供述部分を裏付けるに十分である。

一方、中村の各供述調書によれば、一〇月二四日被告人大野に利息一二〇万円を立替えてもらい、谷口を通じて被告人会社から現金一、五〇〇万円を借入れたこと、その使途については、被告人大野へ右の立替金の返済(一二〇万円)、手持現金一〇万円、農協へ一、〇三三万七、一三三円預入、谷口秀精外の貸付返済(土地代)三三六万二、八六七円との記載があり、これらは、その趣旨において、ほぼ証人谷口の供述部分と一致するところである。

以上によって、右貸付の事実も肯認できる。

(13) 昭和四一年一一月二二日の一、五〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、中村がいずれも宮崎信用金庫の保証小切手で七五〇万円と八〇〇万円の合計一、五五〇万円を持参し、これを現金に換えてその内の一、五〇〇万円を被告人会社に返済したというのである。

中村秀一作成の証明書(33、三七二、37、三七三)によれば、同年一一月二一日に右七五〇万円の小切手が振出されたこと、同月二二日に右八〇〇万円の小切手が振出されたことが認められ、これによって、右証人谷口の供述部分を裏付けることができる。

なお、被告人会社らの弁護人は、右八〇〇万円の小切手の交換日が一一月二五日になっていることから、これが現金化されたのは同日であると主張し、証人谷口もこれを認めるところであるが、右のいずれの日に現金化されたかは、本件においては、それ程重要な問題点とはいえず、いずれにしても、近接する日であることから、右小切手の換金日をいずれに認定したところで、前記証人谷口の供述部分の信用性に影響を与えるものとはいえない。

なお、この点の中村の供述調書は、右証人谷口の供述部分とほぼ同一内容の記載となっている。

以上で右返済も肯認できる。

(14) 昭和四一年一二月三〇日の一、〇〇〇万円の返済及び同月三一日の三、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、同年一二月三〇日か三一日に、赤江農協が一、〇〇〇万円を被告人会社に支払い、一二月三一日被告人岩切から被告人会社振出の小切手二、〇〇〇万円と一、〇〇〇万円の二通を受取り、内一、〇〇〇万円を右の立替分に充当し、内一、五〇〇万円を中村の預金である赤江農協の中村紘和名義口座に預金し、その他は、中村が赤江農協から他人名義で借りていた貸付元利金の返済として和田重治名義で一三二万三、九六〇円、谷口衛名義で二五〇万円、同じく谷口衛名義で八〇万三、六〇〇円の合計四六二万七、五六〇円の支払いに充てたということである。

蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、県信連の赤江農協名義の当座預金から、昭和四一年一二月三一日一、〇〇〇万円が払出され、同日同預金に三、五二四万二、六五〇円が入金されていることが認められ、右証人谷口の供述内容のとおりの資金の流れを裏付けているほか近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、右小切手二通の存在が裏付けられ、中村紘和名義の貯金元帳(同押号の七二)によると、一二月三一日、一、五〇〇万円が預金されたこと、証書貸付金伝票綴(同押号の七三)によれば、右和田重治及び谷口衛名義の貸付金に対する返済の事実がそれぞれ認められ、これらは、いずれも、右証人谷口の供述内容の信用性を裏付けるものである。

なお、中村の各供述調書によれば、右の点につき、谷口に一、〇〇〇万円を農協で資金作りしてもらい、それで被告人会社からの借入金を返済し、その後被告人会社から三、〇〇〇万円を借入れたとの記載があり、その他使途先についてもほぼ証人谷口の供述部分と同一の内容となっている。

以上により、右返済と貸付の事実が肯認できる。

(15) 昭和四二年二月二八日の五〇〇万円の借入

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年二月二八日被告人会社から現金で五〇〇万円借入れ、これをそのまま中村に渡したが中村は宮崎信用金庫に預金していたので、同日付で四四八万円を同信用金庫の中村紘和名義の預金口座に入れているが、これは右の五〇〇万円の一部だと思われるとのことである。

なお、本件については、証人谷口の供述部分を裏付ける資料は、中村の供述調書以外に存在しないので、ここで中村の各供述調書の本件部分についての供述内容の信用性を判断することにする。

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四二年二月二八日谷口を通じて、被告人会社から現金で五〇〇万円を借受け、同日宮崎信用金庫に、その内の一部四四八万円を預け入れたというのである。

ところで中村秀一作成の証明書(33、三七二)によれば、同日、宮崎信用金庫の中村紘和名義の口座に四四八万円が預金されている事実が認められ、右中村の供述調書の内容を裏付けるほか、前記証人谷口の供述部分は、すでに検討してきたように、その他の点で他の証拠と対比してみて、その信用性は高いことが証明されており、右の被告人会社から現金で五〇〇万円を借受けた事実についても、前記のとおり証人谷口の供述部分と中村の供述調書の記載とが完全に一致しているところからみて、その事実を優に認めることができる。

(16) 昭和四二年三月一日の一、五〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によると、同日の一、五〇〇万円の返済は、宮崎信用金庫の中村勇夫名義の預金から一、〇〇〇万円と五〇〇万円が出金されているので、これで返済したことを確認したというのである。

中村秀一作成の証明書(30、三七六)によれば、宮崎信用金庫の中村勇夫名義の当座預金から、昭和四二年三月一日、一、〇〇〇万円と五〇〇万円が出金されていることが認められ、右証人谷口の供述部分を裏付けている。

なお、中村の供述調書によれば、三月一日、一、〇〇〇万円と五〇〇万円の小切手を振出して、これを谷口に渡し、谷口がこれを換金して被告人会社へ返済したというものであって、ほぼ証人谷口の供述部分とその内容が一致している。

以上で右返済の事実が認められる。

(17) 昭和四二年三月三一日の四、〇〇〇万円の返済と同日の四、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、同日、県信連の赤江農協名義の当座預金から四、〇〇〇万円を、宮崎銀行の赤江農協名義の預金口座へ送金し、同日、同預金から右四、〇〇〇万円が払出されて被告人会社へ支払われ、その後、同日被告人岩切から被告人会社振出の四、〇〇〇万円の小切手を受取り、県信連の赤江農協名義の口座に預金したというのである。

蓮井敏一の証明書(46、三六九)によれば、県信連の赤江農協名義預金から、三月三一日、四、〇〇〇万円が宮崎銀行の赤江農協預金口座へ送金され、同日付で小切手で四、〇〇〇万円が右県信連の赤江農協の預金口座に入金されていること、川野周平作成の証明書(51、三七四)によれば、宮崎銀行の赤江農協名義の普通預金口座に、同日付で四、〇〇〇万円が県信連から入金し、同日付で右四、〇〇〇万円が払い出されていること、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、右被告人会社振出の四、〇〇〇万円の小切手が存在することがそれぞれ認められ、以上は、いずれも、右証人谷口の供述部分を裏付けるに足りるものである。

なお、中村の供述調書によれば、右四、〇〇〇万円の返済と借入れは、いわゆる切替であり、その方法は、以前の切替と同様、証人谷口に資金調達とその処理を一任していたとの記憶があり、その趣旨において、証人谷口の供述内容をより明確にするものである。

以上で右返済と貸付の事実が肯認される。

(18) 昭和四二年七月二五日の一、〇〇〇万円の貸付と、同年一〇月二五日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、中村が昭和四二年四月二五日、第三者をして、松川浩子、松川鶴子、須田十敏名義で各一、〇〇〇万円合計三、〇〇〇万円を赤江農協に三ヶ月の定期預金をさせ、これをいわゆる導入預金として中村が赤江農協から三、〇〇〇万円を借受け、その三ヶ月の期日の到来した同年七月二五日に中村が右三、〇〇〇万円の内一、〇〇〇万円だけを返済し、その余の二、〇〇〇万円については、返済を延期すべく、右第三者をして同年七月二五日付で更に須田十敏名義で五〇〇万円、松川鶴子名義で五〇〇万円、松川浩子名義で一、〇〇〇万円の各三ヶ月の定期預金をさせ、前同様、これを導入預金として中村が赤江農協から二、〇〇〇万円借りたことにして右返済の延期をし、次の期日の到来した一〇月二五日に中村がまた一、〇〇〇万円だけを返済し、その残りの一、〇〇〇万円については、更に返済を延期したとのことで、右の返済期日の同年七月二五日と、同年一〇月二五日に各一、〇〇〇万円を返済したその資金は、中村が調達して、谷口が受取りにいったが、谷口は、誰から借り受けたか、はっきりと記憶がない旨述べ、以前の調書等では被告人岩切の所から借りてきたものだという記載であれば、それに間違いないと思うが、現在では、はっきりしないと供述している。

ところで、中村の各供述調書ならびに証人岡勢隆平の供述部分(第四六回公判調書中)、前掲関係の被告人大野の各供述部分及び各供述調書、定期預金証書(同押号の七六ないし八一)、現金伝票綴(同押号の八二、八三)を総合すると、中村が岡勢隆平に前記須田十敏、松川鶴子及び松川浩子名義で、赤江農協に合計三、〇〇〇万円の定期預金をさせて、その見返りに中村が赤江農協から三、〇〇〇万円を借り受けるという、いわゆる導入預金をさせていた事実、ならびにその定期預金の支払期日である同年七月二五日と同年一〇月二五日に現金一、〇〇〇万円ずつが中村から赤江農協に返済された事実を認めることができ、右の各現金一、〇〇〇万円の返済は、いずれも被告人会社から借受けた現金各一、〇〇〇万円で支払ったとする中村の各供述調書の記載は、右認定の各事実がその裏付とされることからも、その信用性を認めるに十分である。

以上を総合すれば、右の昭和四二年七月二五日の一、〇〇〇万円、同年一〇月二五日の一、〇〇〇万円の被告人会社からの各貸付の事実を認めることができる。

(19) 昭和四二年九月三〇日の一、五〇〇万円の返済と同日の一、五〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、右の返済と貸付に関しては、県信連の赤江農協名義の預金口座から、九月三〇日に一、〇〇〇万円が宮崎銀行の赤江農協名義の預金に振込まれ、同日、一、五一〇万円が宮崎銀行の同預金口座から払出されて、その内一、五〇〇万円が被告人会社に支払われ、その後、同日被告人会社振出の小切手一、五〇〇万円を受取り、これを県信連の赤江農協名義に預金したというのである。

蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、昭和四二年九月三〇日、県信連の赤江農協名義の預金口座から、一、〇〇〇万円が宮崎銀行へ振込まれ、その後、同日、一、五〇〇万円の小切手が右口座に預けられたこと、川野周平作成の証明書(51、三七四)によると、同日、宮崎銀行の赤江農協名義の預金口座に、一〇〇〇万円が預け入れられ、その後、同日、同口座から一五一〇万円が払出されていること、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、証人谷口の供述部分にある被告人会社振出の一五〇〇万円の小切手が存在したことがそれぞれ認められ、右はいずれも証人谷口の供述部分を裏付けるものである。

また、中村の各供述調書によれば、本件の一五〇〇万円の返済と借入は、いわゆる切替であり、その方法は前同様、谷口に一任していたということであり、その供述記載は、右証人谷口の供述に副う内容である。

以上によって、右の返済と貸付の事実も肯認できる。

(20) 昭和四二年一〇月二四日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によれば、同日、被告人会社から一、〇〇〇万円を借受け、右一、〇〇〇万円は同日宮崎信用金庫の中村勇夫名義の口座に預金されたというのである。

中村秀一作成の証明書(34、三七九)によれば、同日、一、〇〇〇万円が宮崎信用金庫の中村勇夫名義の口座に預け入れられた事実が認められ、このことは、右証人谷口の供述を裏付けるものである。

また、中村の各供述調書には、同日谷口を通じて、被告人会社から現金一、〇〇〇万円を借入れ、同日、宮崎信用金庫に右一、〇〇〇万円を預金した旨の記載があり、これは証人谷口の供述内容に副うものである。

以上のとおりで、本件一、〇〇〇万円の貸付を認めるに十分である。

(21) 昭和四二年一一月一〇日の二、五〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、中村が第三者をして二、五〇〇万円を赤江農協に預金させ、その見返りに中村が昭和四二年一一月一〇日黒木正名義で二、五〇〇万円を赤江農協から借り受け、それを被告人会社への返済に充てたというのである。

証書貸付金伝票綴(同押号の七四)によれば、昭和四二年一一月二〇日、赤江農協から、貯金二、五〇〇万円を担保とし、中清子を保証人として、二、五〇〇万円が黒木正名義で貸出されたこと及び同年一二月三〇日右の元利金合計二、五二五万六、二五〇円が返済されている事実が認められ、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によると、同年一一月二〇日、県信連の赤江農協名義の当座預金から、二、五〇〇万円が宮崎銀行の赤江農協の預金口座に振込まれたこと、川野周平作成の証明書(51、三七四)によると、同日、宮崎銀行の赤江農協名義の普通預金口座に二、五〇〇万円が振込まれ、同日、同預金から二五〇〇万円が払い出されている事実がそれぞれ認められ、以上は、いずれも、同日、同預金から二、五〇〇万円が払い出されている事実がそれぞれ認められ、以上は、いずれも証人谷口の供述部分を裏付けるものである。

また、中村の各供述調書によれば、右の返済資金は、谷口に金策してもらい、谷口を通じて、被告人会社に返済したが、調べてみると、赤江農協で、同日、黒木正名義で二、五〇〇万円の貸付があり、これがその時に融資してもらったものとわかったというのであり、これは証人谷口の供述内容に副うものである。

以上によって、右返済の事実が認められる。

(22) 昭和四二年一一月二五日の一、〇〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、右の返済については、森野章から二、〇〇〇万円を借り受けて、内一、〇〇〇万円を被告会社への返済に充て、その余の一、〇〇〇万円を、実際には中村が使用していた赤江農協の黒木正名義の預金に入れたと供述する。

右の黒木正名義の貯金元帳(同押号の八四)によれば、昭和四二年一一月二五日に一、〇〇〇万円が預金されている事実が認められ、このことは、右証人谷口の供述部分を裏付けるものである。

この点につき、中村の各供述調書によると、谷口に資金をお願いして二、〇〇〇万円を融資してもらい、一、〇〇〇万円を被告人会社への返済に充て、残りを、赤江農協の黒木正名義に預け入れたが、調べてみると右の二、〇〇〇万円は谷口から森野から調達していたことがわかったと記載されており、その供述記載は、右谷口の供述部分と符号する内容となっている。

以上によって、右返済の事実も認められる。

(23) 昭和四二年一二月五日の一、五〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年一二月五日、森野章から一、五〇〇万円を借り受け、これを被告人会社への返済に充てたというのである。

これについて、中村の各供述調書によると、谷口を通じて現金で一、五〇〇万円を被告人会社に返済したが、返済資金は谷口に調達してもらったのであり、調べたところ、森野章から一、五〇〇万円出ていることがわかった旨の記載があって、右谷口の供述部分と同一の内容となっているが、証人谷口の供述内容は、既に検討してきたように通じて十分信用できるものであることから、本件返済についても、証人谷口の供述部分により中村の各供述調書の記載と相俟って、その事実を認めることができる。

なお、備忘録(同押号の八五)及び証人谷口の供述部分を総合すれば、谷口において、中村に使用させるための借入金を記載したものが右の備忘録であるが、これに記載された昭和四三年六月二三日現在においての森野章からの借入金は一億円にも及んでいることからも、証人谷口の供述部分及び中村の各供述調書の森野章から返済資金を借入れたとする供述内容は十分首肯できるものといえる。

(24) 昭和四二年一二月二九日の一、〇〇〇万円の返済と同月三〇日の一、〇〇〇万円の貸付

証人谷口の供述部分によると、県信連の赤江農協名義の当座預金から、昭和四二年一二月二九日に一、〇〇〇万円が宮崎銀行の赤江農協名義の預金口座に振込まれ、同日、同預金から右一、〇〇〇万円が払出されて、右一、〇〇〇万円を被告人会社に返済し、翌一二月三〇日、被告人会社から小切手で一、〇〇〇万円を借受け、これを県信連の赤江農協名義の当座預金に預け入れたというのである。

蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によれば、昭和四二年一二月二九日、県信連の赤江農協名義の当座預金から一、〇〇〇万円が宮崎銀行の赤江農協の預金口座へ振込まれたこと、同月三一日、右県信連の当座預金に一、二二一万四、二六七円が入金されていること(証人谷口の供述部分によれば、被告人会社からの右小切手金一、〇〇〇万円が、右金額の中に含まれているという)、川野周平作成の証明書(51、三七四)によれば、宮崎銀行の赤江農協名義の普通預金へ、昭和四二年一二月二九日に一、〇〇〇万円が振込まれ、同日、同預金から一、〇〇〇万円が払出されていること、近藤康夫作成の証明書(18、三六三)によれば、昭和四二年一二月三〇日付で被告人会社振出の一、〇〇〇万円の小切手が存在することがそれぞれ認められ、これらは、前記証人谷口の供述部分の信用性を裏付けるものといえる。

なお、中村の各供述調書によると、右の一、〇〇〇万円の返済と借入は、いわゆる切替であり、方法は前同様、谷口に資金調達や処理を一任していた旨記載されており、右は証人証人谷口の供述内容を補充するものである。

以上によって、右の返済と貸付の事実を認めることができる。

(25) 昭和四三年三月二五日の二、〇〇〇万円の返済

証人谷口の供述部分によれば、昭和四三年三月二五日、被告人会社へ二、〇〇〇万円を返済したことにより、被告人会社に対する中村の借入金の残高がなくなったが、右二、〇〇〇万円の返済資金は、赤江農協の双和ハウス代表児玉武行名義の貯金から二、〇〇〇万円を払出したこととし(これは農協の内部処理)、日本勧業銀行の赤江農協名義の普通預金口座から二、〇〇〇万円を払出して現金を用意し、それで支払ったというのである。

児玉武行名義の貯金元帳(同押号の六七)によれば、昭和四三年三月二五日、赤江農協の双和ハウス児玉武行名義の預金から二、〇〇〇万円が払出になっていること、三島禎一作成証明書(48、三八三)によれば、日本勧業銀行宮崎支店の赤江農協名義の普通預金から、同日付で二、〇〇〇万円が払出されていることがそれぞれ認められ、以上の各事実は証人谷口の供述部分十分裏付けるものである。

この点につき、中村の供述調書によれば、被告人会社へ谷口を通じて二、〇〇〇万円を返済したが、これが最後の支払であったこと、その返済資金は、赤江農協の児玉武行名義の普通預金から払出したが、児玉武行は、双和ハウスの代表者で、右預金は同日から導入したものであるので、児玉の名義を使用していた旨の記載があり、これは、前記証人谷口の供述内容を裏付けるとともに補充するものといえる。

なお、右児玉武行の預金が、中村のための導入預金であることは、証人谷口の供述部分と備忘録(同押号の八五)の記載によって、それを認めるのに十分である。

このようにして右返済の事実も認められる。

以上のとおり、証人谷口の供述部分は、単なる記憶だけに基づいての供述ではなく、他の客観的な書証及び証拠物によって裏付けされた供述内容となっており、通じて十分信用できるものであり、また、中村の各供述調書の供述記載もおおむね右証人谷口の供述部分と合致していて十分信用するに足り、前記(1)乃至(25)のとおり、これらの各証拠によって、谷口が介在して行われた被告人会社から中村に対する一連の金銭の貸付関係を認めることができ、これをまとめると、別表(四)の被告人会社から中村勇夫に対する簿外貸付経過表の貸付元本欄のとおりとなる。

ところで、被告人岩切及びその弁護人らは、前記のとおり右各金銭の貸付を否認し、被告人会社から赤江農協に対し預金をしたことがあるに過ぎないとするが、もしそうであるとすれば、それに見合う預金元帳が存在しなければならないはずであるところ、証人谷口の各供述部分によると、昭和四一年三月三一日より後において、被告人会社から赤江農協に対する預金関係を示す預金元帳はもともと全くつくられておらず、被告人岩切が主張する被告人会社名義の貯金元帳(同押号の六五の二)は、後になって被告人岩切から「近く国税局からの査察があるから預金元帳を自分のいうとおりに書いてくれ」と電話で依頼を受けて被告人岩切のいうままに作成された偽りのものであることが認められる。このことは、第三五回公判調書中の証人巽千枝子の供述部分によっても十分に裏付けられ、この一事によっても、被告人岩切らの主張するような被告人会社から赤江農協に対する預金関係は、存在しなかったものといわなければならない。

更に、右弁護人は、押収してある被告人会社の赤江農協の普通貯金通帳(同押号の六四)によれば、昭和四一年一〇月五日、右預金から一、五〇〇万円が払戻されたことになっているところ、証人谷口はこの事実を否定するが、当時宮崎銀行に勤務していた証人野崎恭平は、同年一〇月五日被告人会社の代理人として赤江農協に赴き、被告人会社の赤江農協の預金から一、五〇〇万円の払戻しを受け、これを宮崎銀行における被告人会社の普通預金口座に入金したと供述し、同普通預金口座にはその入金が記載されており、当時右野崎の上司であった三原清豊もこれを裏付ける証言をしていて、証人谷口の右証言は客観的事実に反し信用できず、以上のことは前記主張の被告人会社から赤江農協への預金の事実を証するものであると主張する。しかしながら、証人谷口の供述部分によれば、右の普通貯金通帳(同押号の六四)の記載は、被告人岩切に指示されるままに記載したに過ぎないものであり、右弁護人主張のように昭和四一年一〇月五日に赤江農協から被告人会社への一、五〇〇万円の預金払戻の事実などはなかったと述べており、もし仮に、右弁護人主張のように、同日、赤江農協の窓口で一、五〇〇万円の預金払戻がなされたとするならば、赤江農協側にそれに見合う現金の移動がなければならないところであるが、蓮井敏一作成の証明書(46、三六九)によっても、また、川野周平作成の証明書(51、三七四)によっても、右の一、五〇〇万円が同日赤江農協から外部へ移動した形跡は全く窺えず、逆に、右各証拠によれば、その一、五〇〇万円の移動がなかったことが裏付けられる。また、右証人野崎の供述部分によれば、右預金の払戻につき、預金通帳と印鑑だけを赤江農協の窓口へ持って行き、一、五〇〇万円を払戻してもらったというのであるが、前記のとおり、赤江農協には、右弁護人主張の預金に見合う預金元帳は、当時存在していなかったことが明らかであり、このように預金元帳もないのに、預金通帳の記載だけに基づいて一、五〇〇万円の大金を払戻すことは、到底考えられないことである。以上を総合すれば、証人谷口の昭和四一年一〇月五日に右一、五〇〇万円の預金払戻などはなかったとするその供述部分の方が合理的で使用できるのに反し、右証人野崎恭平の供述部分は、およそ信用できない。もっとも、入出金伝票(同押号の九九)及び普通預金通帳(同押号の一〇一)によれば、昭和四一年一〇月五日に宮崎銀行の被告人会社名義の普通預金口座に一、五〇〇万円が預金されている事実が認められるが、この一、五〇〇万円の預金は、右のとおり、同日、赤江農協からの右弁護人主張のような預金の払戻の事実がなかったと認められるので、赤江農協が関係しない別個の現金が預金されたものといわざるを得ず、よって、右の弁護人の主張も肯認できない。

(三) 被告人会社及び被告人大野が受領した利息

既に述べてきたとおり、証人谷口の供述部分は全面的に信用できるものであり、中村勇夫の各供述調書も、右証人谷口の供述部分と同旨の内容となっていることから、中村の各供述調書も全体として信用性の高いものであるということができる。

ところで、前記のとおり、中村の各供述調書によれば、被告人会社への利息の支払いは、中村から被告人大野を通じて支払われたものであるが、被告人大野や被告人岩切が右利息の受取を全面的に否定しており、更には証人谷口も右利息の支払いに関しては、一部を除き殆ど関与していないことから、中村の各供述調書によってのみしか認定できないことになるが、前記認定のとおり、融資取引として被告人会社から中村への金銭の貸付がなされている以上、それに相応する利息が支払われることは当然のことであり、また、既に中村の各供述調書の信用性も十分裏付けられたのであるから、右利息の支払い及びその金額が元本の授受との関連で不合理である場合はともかく、右中村の各供述調書により利息の支払いを認定することは相当な方法である。そこで、以下、右中村の各供述調書によって各個の利息の支払いを認定していくこととする。

(1) 昭和四〇年一〇月一五日の二二五万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、被告人会社に対し前記(二)の(1)で述べたように、被告人会社が赤江農協に中村のために導入預金をした一、五〇〇万円に対する月五分の割合による三か月(昭和四〇年一〇月一五日から昭和四一年一月一五日まで)分の利息二二五万円を、右導入預金がなされた日の昭和四〇年一〇月一五日に被告人会社振出の一、三五〇万円の小切手を換金した内から支払ったこと、被告人大野に対しては、別途手数料の意味で、被告人大野の末吉源治からの借入金五万円と中川耕一からの借入金一〇万円を中村が返済してやったこと、以上の事実が認められ、この点に関する他の書証及び証拠物の存在については、既に述べたとおりである。

(2) 昭和四一年三月三一日の八〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)の(3)で借入れた一、〇〇〇万円に対し、月八分の割合による一か月分(昭和四一年三月三一日から同年四月三〇日まで)の利息八〇万円を右借入日の昭和四一年三月三一日に支払ったのであり、その支払資金については、同月二九日旭相互銀行の中村紘和名義の普通預金から引き出した三〇万円の内の一〇万円と同月三一日右同預金から四〇万円、同日宮崎信用金庫の竹中ナツミ名義の普通預金から二〇万円、同日宮崎信用金庫の中村紘和名義の普通預金から一〇万円をそれぞれ払い出し、その合計八〇万円をこれに充てた事実が認められる。

右の支払資金の点に関しては、有村覚作成の証明書(28、三六六)、中村秀一作成の証明書(31、三六七)及び中村秀一作成の証明書(32、三六八)によって、右事実が裏付けられ、このことから右利息支払の事実も補強される。

(3) 昭和四一年四月二〇日の三二〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)、(5)の昭和四一年四月二一日借入の二、〇〇〇万円に対する月八分の割合による二か月分(同年四月二一日から同年五月三〇日まで)の利息三二〇万円を、その借入の前日の同年四月二〇日に被告人大野に手渡して支払ったこと、右の支払資金については、同年四月二〇日宮崎信用金庫の中村弘和名義普通預金から一〇〇万円、同日旭相互銀行の中村紘和名義の通知預金から三〇〇万円をそれぞれ払い戻して準備し、以上の内から右利息三二〇万円を支払った事実が認められる。

右の支払資金の準備に関しては、中村秀一作成の証明書(32、三六八)及び有村覚作成の証明書(27、三六四)によって右事実が裏付けられ、このことから右利息支払いの事実も補強される。

(4) 昭和四一年五月一〇日の八〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)、(6)の昭和四一年五月一〇日借入の一、〇〇〇万円に対する月八分の割合による一か月分(同年五月一〇日から同年六月一〇日まで)の利息八〇万円を、右借入の日に被告人大野に手渡して支払ったこと、右の支払資金は、昭和四一年五月九日宮崎信用金庫の中村弘和名義の普通預金から引き出した七〇万円と同月一〇日、同信用金庫の竹中ナツミ名義の普通預金から引き出した七〇万円の内の一〇万円の合計八〇万円であった事実が認められる。

右の支払資金に関しては、中村秀一作成の証明書(32、三六八)及び同人作成の証明書(31、三六七)によって右事実が裏付けられ、このことから右利息支払いの事実も補強される。

(5) 昭和四一年六月一三日の八〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)、(6)の昭和四一年五月一〇日借入の一、〇〇〇万円に対する月八分の割合による一か月分(同年六月一一日から同年七月一〇日まで)の利息八〇万円を被告人大野の自宅で現金で支払ったこと、右の支払資金については、昭和四一年六月一三日、宮崎信用金庫大淀支店で、大興商事振出の手形(金額八〇万円)を割引いた金で充当した事実が認められる。

右の支払資金については、中村秀一作成の証明書(35、三七一)により、宮崎信用金庫の中村勇夫名義の割引手形元帳の記載から大興商事振出の手形の割引によって中村が右現金八〇万円を手に入れた事実が認められ、右支払資金の出所と共に右利息支払の事実が裏付けられる。

(6) 昭和四一年六月二四日の二四〇万円

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)、(8)のとおり昭和四一年六月二五日に三、〇〇〇万円を借りるため、その前日の同月二四日に三、〇〇〇万円に対する月八分の割合による一か月分(同年六月二五日から同年七月二五日まで)の利息二五〇万円を現金で被告人大野の自宅へ持っていって支払い、右三、〇〇〇万円の借入の申込をしたこと、右の支払資金については、宮崎信用金庫の竹中ナツミ名義の普通預金から同年六月二三日に三五万円、同月二四日に五万円、同日宮崎信用金庫の中村弘和名義の普通預金から二〇〇万円をそれぞれ払出して合計二四〇万円を用意した事実が認められる。

右の支払資金の点に関し、中村秀一作成の証明書二通(31、三六七、33、三七二)によって、右事実が裏付けられ、このことから右利息支払の事実が補強される。

(7) 昭和四一年七月二九日の四〇〇万円(二四〇万円と一六〇万円の二口の利息)の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前(二)、(6)の昭和四一年五月一〇日に借入れた一、〇〇〇万円に対する月八分の割合による三か月分(同年七月一一日から同年九月三〇日まで)の利息二四〇万円と、同年七月二九日に借入れる一、〇〇〇万円に対する月八分の割合による二か月分(同年七月二九日から同年九月二九日まで)の利息一六〇万円の合計四〇〇万円を同年七月二九日に現金で被告人大野の自宅で支払ったこと、その支払資金については、宮崎信用金庫の中村紘和名義の普通預金から同年七月二九日に二二〇万円を払出し、同日、谷口から一八〇万円を立替えてもらい、以上で合計四〇〇万円を都合した事実が認められる。

右の支払資金の点に関し、中村秀一作成の証明書(33、三七二)によって、昭和四一年七月二九日に右預金から二二〇万円が払出されていることが認められ、また、証人谷口の供述部分によれば、同人が右の一八〇万円を立替えた旨の供述があり、これらは、いずれも右事実を裏付けるものであり、このことから右利息支払いの事実も補強される。

(8) 昭和四一年七月三〇日の四八〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)、(8)の昭和四一年六月二五日に借入れた三、〇〇〇万円に対する月八分の割合による二か月分(同年八月一日から同年九月三〇日まで)の利息四八〇万円を大野に手渡して支払ったが、右の支払資金については、同年七月三〇日付の宮崎信用金庫振出の保証小切手三七〇万円から、前記(7)の谷口の立替分一八〇万円を差し引いた一九〇万円と同年七月二九日に被告人会社から一、〇〇〇万円を借入れた際の現金の残り三〇〇万円の内二九〇万円との合計四八〇万円で都合した事実が認められる。

右についての詳細な検討は、前記(二)の九で、昭和四一年七月二九日借入れの一、〇〇〇万円の使途に関して述べているところであり、右認定の事実も他の証拠と相俟って十分認められる。

(9) 昭和四一年九月二九日の四八〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四一年九月二九日現在で前記被告人会社からの借入金の合計残高が三、〇〇〇万円となり、その三、〇〇〇万円に対する月八分の割合による二か月分(昭和四一年一〇月一日から同年一一月三〇日まで)の利息四八〇万円を被告人大野に手渡して支払ったが、右の支払資金は、宮崎信用金庫の中村紘和名義の普通預金から同年九月二九日に一〇〇万円と二〇四万円を払出し、この三〇四万円と、宮崎銀行の通知預金を同月二八日に解約して受取った五〇〇万円の内三一五万円を別途宮崎開発へ借入金の利息として支払った残りの一八五万円の中からの一七六万円との合計四八〇万円で準備した事実が認められる。

中村秀一作成の証明書(33、三七二)によって、右の宮崎信用金庫の中村紘和名義の預金から一〇〇万円と二〇四万円が払出された事実が明らかであり、右認定事実の一部についてではあるがその裏付けが存在する。

(10) 昭和四一年一〇月二四日の一二〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四一年一〇月二四日の午前中、被告人大野のところへ行き、被告人大野に、前記(二)、(12)の同日借入れる一、五〇〇万円に対する月八分の割合による一か月分の利息一二〇万円を立替えて支払ってもらい、同日午後被告人会社から借入れた右一、五〇〇万円で被告人大野に右の立替金一二〇万円を返済し、その残りを手持現金として一〇万円、赤江農協へ一、〇三三万円七、一三三円預金、谷口秀精外の貸付金返済(土地代)に三三六万二、八六七円を利用した事実が認められる。

右利息の支払資金である一、五〇〇万円の借入については既に前記(二)の(12)で検討したように、他の証拠によっても裏付けられるところである。勿論、被告人大野は右利息の立替払についてその事実を否定しているが、この点中村の各供述調書の方がより信用できることは、既に述べたところから明らかである。

(11) 昭和四一年一二月二〇日の二四〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四一年一二月二〇日、右(9)記載の借入金残高三、〇〇〇万円に対する月八分の割合による一か月分(昭和四一年一二月一日から同月三一日まで)の利息二四〇万円を支払ったが、右の支払資金については、谷口に赤江農協から資金作りしてもらった二一二万円と、赤江農協の中村の普通預金から昭和四一年一一月三〇日に五〇万円を払出した内からの二八万円との合計二四〇万円で都合した事実が認められる。

右の支払資金の点に関し、証人谷口の供述部分によれば、昭和四一年一二月一四日、赤江から谷口衛名義で八〇万円を貸出し、同月二〇日、同じく和田重治名義で一三二万円を貸出しており、以上合計二一二万円が中村から被告人会社への利息の支払に充てられた旨の供述があって、この供述は証書貸付金伝票綴(同押号の七三)によって裏付けられ、更に赤江農協の中村紘和名義の貯金元帳(同押号の七二)によれば、昭和四一年一一月三〇日に同預金から五〇万円が払出されている事実が認められ、以上は、いずれも、右認定の事実に関する中村の各供述調書の内容を裏付けられるものである。

(12) 昭和四一年一二月三〇日の八〇〇万円(三二〇万円と四八〇万円の二口の利息)の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四一年一二月三〇日現在の前記被告人会社からの借入金の繰越二、〇〇〇万円に対する月八分の割合による二か月分(昭和四二年一月一日から同年二月二八日まで)の利息三二〇万円及び前記(二)、(14)の昭和四一年一二月三一日に借入すべき三、〇〇〇万円に対する月八分の割合による二か月分(昭和四二年一月一日から同年二月二八日まで)の利息四八〇万円の合計八〇〇万円を昭和四一年一二月三〇日に、被告人大野に手渡して支払ったが、その支払資金については、昭和四一年一二月二八日に宮崎信用金庫の中村紘和名義の普通預金から二〇〇万円、同月二九日に同預金から三〇〇万円を各払出し、これらと同月三〇日に谷口に立替えてもらった二五〇万円及び手持現金五〇万円の合計八〇〇万円で支払った事実が認められる。

右の支払資金の点について、中村秀一作成の証明書(33、三七二)によれば、右宮崎信用金庫の中村紘和名義の普通預金から昭和四一年一二月二八日に二〇〇万円、同月二九日に三〇〇万円がそれぞれ払出されていることが認められ、証人谷口の供述部分によれば、谷口衛名義で赤江農協から借受けた二五〇万円を被告人会社への右利息の支払に充てたというのであり、証書貸付金伝票綴(同押号の七三)によれば、右谷口衛名義での二五〇万円の借受の事実も認められるのであって、おおよそ右事実が裏付けられ、このことから右利息支払の事実も補強される。

(13) 昭和四二年二月二七日の三六〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四二年二月二七日谷口に資金作りをしてもらい、前記被告人会社からの同年三月一日現在の借入金残高四、〇〇〇万円に対する月九分の割合による一か月分(同年三月一日から同月三一日まで)の利息三六〇万円を現金で被告人大野の所に持参して被告人大野に渡したこと、右利息が月九分の割合に上ったのは、借入金残高が減少せず、逆にふえる状態だったので被告人大野から要求されて利率を上げた事実が認められる。

右に関し、証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年二月二七日ごろ、中村のために森野章から借入れた二、〇〇〇万円を全部中村に使わせたこと、そして、右二、〇〇〇万円の内一、二〇〇万円は宮崎信用金庫の中村勇夫名義の当座預金に預け入れたというのであり、中村秀一作成証明書(30、三七六)によれば、宮崎信用金庫の中村勇夫名義の当座預金に、昭和四二年二月二八日一、二〇〇万円が預け入れられている事実が認められ、中村のいう右利息支払資金の出所が裏付けられる。

(14) 昭和四二年三月三一日の七二〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、これは、前記(二)、(17)の昭和四二年三月三一日の四、〇〇〇万円の借入(切替)に対する月九分の割合による二か月分(同年四月一日から五月三一日まで)の利息七二〇万円で、中村は、これを現金で被告人大野に手渡して支払ったが、その資金は、昭和四二年三月三一日赤江農協から新日本土木名義で借入れた一、五二五万円から支出された事実が認められる。

証人谷口の供述部分によると、昭和四二年三月三一日赤江農協から新日本土木に対する一、五二五万円の証書貸付があるが、これについて、実際に貸付を受けたのは、中村であるというのであり、右の赤江農協から新日本土木への貸付の事実は、現金伝票綴(同押号の八六)によって認められ、以上は、中村のいう右利息支払資金の出所を裏付けるものである。

(15) 昭和四二年六月五日の四〇〇万円の支払

中村の供述調書によれば、中村は、昭和四二年六月一日現在の被告人会社からの前記借入金残高四、〇〇〇万円に対する月一割の割合による一か月分(同年六月一日から同月三〇日まで)の利息四〇〇万円を同月五日に現金で被告人大野に支払ったが、その資金については、昭和四二年五月二九日宮崎住宅生協に一億三、五〇〇万円で売却した土地代金の内、その時に受領した金額二、五〇〇万円の約束手形を同年六月三日高千穂相互銀行で割引き、その割引金を入金した同銀行の中村勇夫名義の普通預金から、同月五日一、二〇〇万円を払出し、その内から支払ったこと、利率については、元本の返済を迫られたが、資金的に返済ができず期間の延長を願い出ると、利息をあげるといわれて、月一割の利息を支払うことになった事実が認められる。

川俣勝嗣作成の証明書(40、三七七)によれば、右の金銭の出し入れが裏付けられる。

(16) 昭和四二年七月一日の四〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四二年七月一日谷口に一、五〇〇万円の資金作りをしてもらい、同日現在の被告人会社からの前記借入金残高四、〇〇〇万円に対する一〇日間(同年七月一日から同月一〇日まで)で一割の利息四〇〇万円を被告人大野に現金で手渡して支払ったこと、中村にとってこのころ資金繰りが最も苦しい時で要求されるままに「といち」といわれる一〇日に一割の高利を支払った事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年七月一日、森野章から赤江農協に一、五〇〇万円預金してもらい、これを中村が使ったという記憶があるというのであり、右中村の利息支払の資金繰についての供述内容を裏付けている。

(17) 昭和四二年七月一一日の四〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は昭和四二年七月一一日現在の被告人会社からの前記借入金残高四、〇〇〇万円に対する二〇日間(同月一一日から同月三一日まで)で一割の利息四〇〇万円を現金で同日大野に手渡して支払ったが右資金については、谷口に赤江農協から二〇〇万円融通してもらい、残りの二〇〇万円は、右(16)記載の森野章の預金で借入れた一、五〇〇万円の預金を充てた事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年七月一一日赤江農協から和田重治名義で二〇〇万円貸出したが、実際にこの二〇〇万円の貸付を受けたのは、中村であるというのであり、現金伝票綴(同押号の八七)によれば、右の和田重治名義で二〇〇万円が貸出されている事実が認められ、この点についての中村の供述記載が裏付けられている。

(18) 昭和四二年七月二五日の二一〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)、(18)昭和四二年七月二五日借入の一、〇〇〇万円に対する月七分の割合による三か月分(同年七月二五日から同年一〇月二四日まで)の利息二一〇万円を同日、現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右の利息金二一〇万円は、谷口から同年七月一日に資金作りしてもらった一、五〇〇万円の内から支出した事実が認められる。

同年七月一日に谷口が中村のために一、五〇〇万円の資金作りをしてやったことは、前記(16)で述べたとおりであり、右中村の供述調書の内容が裏付けられる。

(19) 昭和四二年八月一日の四〇〇万円の支払

中村の各供述部分によれば、中村は、右(17)の記載の借入金残高四、〇〇〇万円に対する一〇日間(昭和四二年八月一日から同月一〇日まで)で一割の利息四〇〇万円を同年八月一日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右利息の支払資金は、同年七月三一日谷口に依頼して赤江農協から黒木幸則名義で二〇五万円借入れ、同年八月一日宮崎信用金庫の中村勇夫名義の普通預金から二九五万円払戻し、その合計五〇〇万円より支出して事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年七月三一日赤江農協から黒木幸則名義で二〇五万円を中村に貸付けたことがあるが、中村はこれを利息に使ったと思うというのであり、現金伝票綴(同押号の八八)によれば、右の黒木幸則名義で二〇五万円を中付がなされている事実が認められ、また、中村秀一作成の証明書(34、三七九)によれば宮崎信用金庫の中村勇夫名義の普通預金口座から同年八月一日に二九五万円が払出されている事実が認められ、以上はいずれも、前記中村の供述調書の内容の裏付けとなるものである。

(20) 昭和四二年八月一〇日の四〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(19)記載の借入金残高四、〇〇〇万円に対する一か月分(昭和四二年八月一一日から同年九月九日まで)の月一割の割合による利息四〇〇万円を同年八月一〇日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右支払資金については、昭和四二年八月一〇日谷口から一、五〇〇万円を資金作りしてもらい、その内から支出した事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年八月一〇日森野章から赤江農協に一、五〇〇万円を預金してもらい、これを中村に使わせた記憶があるというのであり、右利息支払資金の出所を裏付けている。

(21) 昭和四二年九月八日の四〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(20)記載の借入金残高四、〇〇〇万円に対する一〇日間(昭和四二年九月一〇日から四月一九日まで)で一割の利息四〇〇万円を同年九月八日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右の支払資金は、昭和四二年九月八日谷口から資金作りをしてもらった一、一〇〇万円の中から支出した事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、昭和四二年九月八日森野章から赤江農協に一、一〇〇万円を預金してもらい、これを中村に使わせた記憶があるというのであり、右利息支払資金の出所を裏付ける。

(22) 昭和四二年九月一九日の四〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(21)記載の借入金残高四、〇〇〇万円に対する一〇日間(昭和四二年九月二〇日から同月三〇日まで)で一割の利息四〇〇万円を同月一九日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右の支払資金は、谷口に依頼して、赤江農協から昭和四二年九月一八日和田重治名義で一八〇万円、同月一九日谷口衛名義で二〇〇万円をそれぞれ借受け、右の合計三八〇万円を右支払いに充てた事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、右のとおり赤江農協から和田重治名義で一八〇万円、谷口衛名義で二〇〇万円の各貸付があり、これらは、いずれも実際には中村に対する貸付であったというのであり、さらに証書貸付金伝票綴(同押号の七四)によれば、昭和四二年九月一九日和田重治名義で一八〇万円、同月二〇日谷口衛名義で二〇〇万円の右貸付がなされている事実が認められ、右認定が補強される。

(23) 昭和四二年九月二九日の四〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(22)記載の借入金残高四、〇〇〇万円に対する月一割の割合による一か月分(昭和四二年一〇月一日から同月三一日まで)の利息四〇〇万円を同年九月二九日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、その支払資金は、昭和四二年九月二八日赤江農協から谷口智明名義で借入れた一八〇万円と、同月八日谷口に資金作りをしてもらった一、一〇〇万円の残金からの持ち出しとで右四〇〇万円支出した事実が認められる。

証人谷口の供述部分によれば、赤江農協から谷口智明名義で昭和四二年九月二八日に一八〇万円を貸付けたが、これは実際は中村に対する貸付であったというのであり、証書貸付金伝票綴(同押号の七四)によれば、右のとおり谷口智明名義で一八〇万円の貸付があった事実が認められ、更に、同月八日谷口が中村に一、一〇〇万円の資金作りをしてやったことは、前記(21)で述べたとおりであり、これらは、いずれも、右利息支払資金の出所の裏付けとなるものである。

(24) 昭和四二年一〇月二四日の一〇〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、前記(二)の(20)記載のように昭和四二年一〇月二四日に借入れた一、〇〇〇万円に対する月一割の割合による一か月分(同年一〇月二五日から一一月二五日まで)の利息一〇〇万円を同年一〇月二四日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右の支払資金は、同年一〇月二四日に谷川内数雄へ売却した土地、建物の代金一二〇万円が入り、それを右利息の支払に充てた事実が認められる。

中村が昭和四二年一〇月二四日に一、〇〇〇万円を被告人会社から借受けたことは、既に前記(二)の(20)で認定したとおりであり、これまで述べてきたように被告人会社に対する利息の支払が先払であったことに照らすと、右借受に対応して右利息の支払いがなされたとの中村の供述調書の内容は十分信用できる。

(25) 昭和四二年一〇月二五日の八二〇万円(四二〇万円と四〇〇万円の二口の利息)の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(23)記載の借入金残高四、〇〇〇万円に対する月一割の割合による一か月分(昭和四二年一一月一日から同月三〇日まで)の利息四〇〇万円と別口の一、〇〇〇万円(前記(二)、(18)の同年七月二五日の借入分)及び前記(二)、(18)の同年一〇月二五日に借入れる一、〇〇〇万円の合計二、〇〇〇万円に対する月七分の割合による三か月分(同年一〇月二五日から昭和四三年一月二四日まで)の利息四二〇万円との合計八二〇万円を昭和四二年一〇月二五日に現金で被告人大野に手渡して支払ったが、右支払資金は、宮崎信用金庫の中村勇夫名義の普通預金から、同年一〇月二五日払出した現金一、〇〇〇万円を用いた事実が認められる。

中村秀一作成の証明書(34、三七九)によれば、右預金から同年一〇月二五日に一、〇〇〇万円が払出されている事実が認められ、右利息支払資金の出所が裏付けられる。

(26) 昭和四二年一一月三〇日の一五〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(25)記載三か月分の利息を支払った借入金合計二、〇〇〇万円を除く被告人会社からの借入金残高一、五〇〇万円に対する月一割の割合による一か月分(昭和四二年一二月一日から同月三一日まで)の利息一五〇万円を同年一一月三〇日に現金で被告人大野に手渡して支払ったこと、右支払資金は谷口に依頼して作ってもらったが、後に調べたところ、赤江農協の黒木正名義の普通預金から同年一一月二七日に三七五万円が払い出されていて、その内から右利息の支払をしたものであることを知ったとの事実が認められる。

右の利息支払資金に関し、証人谷口の供述部分によれば、赤江農協の黒木正名義の普通預金から同年一一月二七日に三七五万円が払戻されているが、実際にその払戻金を受け取ったのは中村であるというのであり、なお、右三七五万円の預金払戻の事実は、黒木正名義の貯金元帳(同押号の八四)によって認められるのであって、中村のいうその資金の出所が裏付けられる。

(27) 昭和四三年一月二五日の一四〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、昭和四三年一月二五日現在の被告人会社からの借入金残高二、〇〇〇万円に対する月七分の割合による一か月分(昭和四三年一月二五日から同年二月二四日まで)の利息一四〇万円を、被告人大野から同年一月二五日に一、五〇〇万円借入れて、その日にその中から支払った事実が認められる。

右事実については、被告人大野はこれを認めないところであるが、昭和四三年一月二五日現在被告人会社からの借入金残高が二、〇〇〇万円存在したことは、既に述べたところから明らかであり、前記支払ずみの利息の納期からも右残高二、〇〇〇万円に対する利息の支払がなされたことは、十分理解できるし、右の利息は、後記(28)の利息と全く同じの借入残高に対するもので、これと一連の関係にあることを考えると、後記のとおり(28)の利息の支払についての中村の供述が信用できる以上、右の利息の支払についても同様に中村の右供述記載は十分首肯できるところである。

(28) 昭和四三年二月二五日の一四〇万円の支払

中村の各供述調書によれば、中村は、右(27)記載の借入金残高二、〇〇〇万円に対する月七分の割合による一か月分(昭和四三年二月二五日から同年三月二四日まで)の利息一四〇万円を同年二月二五日に被告人大野に支払ったが、右支払資金については、谷口に依頼して調達したが、後に調査したところ、昭和四三年二月二三日に赤江農協の黒木正名義の普通預金から二〇〇万円の払出があり、その中から右利息の支払をしたことを知ったとの事実が認められる。

証人谷口の供述部分によると、赤江農協の黒木正名義の普通預金から昭和四三年二月二三日に二〇〇万円が払戻されているが、実際にその払戻金を受け取ったのは中村であるというのであり、また、右二〇〇万円の預金払戻の事実は、黒木正名義の貯金元帳(同押号の八九)によって認められるのであって、中村のいう右資金の出所が裏付けられる。

以上、中村の各供述調書によって順次各利息の支払を認定してきたが、各項目ごとに検討したように右各利息の支払資金源についても、殆んど他の証拠によってこれが裏付けられるほか、右認定をまとめた別表(四)記載のとおり、貸付元本の移動との問題においても、右各利息の支払がとりたてて不合理であるというべき点は見出し得ない。

よって、中村から被告人大野を通じて支払われた前記被告人会社の貸付金に対する利息は、右に認定したとおりであると認めるべきで、これをまとめると、別表(四)の被告人会社から中村勇夫に対する簿外貸付経過表の中村勇夫の支払利息欄記載のとおりとなる。

(四) 被告人会社と被告人大野との間における前記利息の配分について

中村が被告人会社からの借受金に対する利息として前記(三)で認定のとおり金銭を被告人大野を通じて支払っていたことは、既に述べたとおりであり、結局、右利息金は、その割合はともかくとして、被告人会社と被告人大野において取得したものと認められるのであるが、その割合については、被告人岩切及び被告人大野が前記貸付及び利息の授受自体一切これを否認しているため、当事者間の供述を俟って直接認定することはできないので、他の証拠によって認められる関係事実を検討して、その割合を認定していくのが相当な方法である。

ところで、中村の各供述調書によれば、昭和四〇年一〇月中村が被告人大野を介し被告人会社から金融を得る話がでた際、中村は被告人大野から「岩切は金を出すがそれは裏金だ。利息は月五分で前払をしてもらいたい。」「一、五〇〇万円出すが利息は月五分で岩切が預金をする前に支払ってもらいたい。」と言われて月五分の割合による利息を支払ったこと(前記(三)の(1)参照)、本件外の被告人岩切からの他の借入れに際しても、被告人岩切へ月五分の割合による利息と被告人大野へ月一分の割合による仲介手数料を被告人大野へ渡して支払ったこと、中村自身、被告人会社からの借入金に対する利息が全体として月八分、九分、一割となっても、そのうち月五分の割合分が被告人会社に渡る利息で、その余を被告人大野が仲介手数料として取得していたと認識していたこと、以上の各事実が認められる。

また、被告人大野の検察官に対する各供述調書(昭和四五年一一月十七日付七枚綴のもの、同月一八日付三枚綴のもの)によれば、被告人岩切が他への貸金に対してとる利息はいつも月五分の割合であったこと、被告人岩切は昭和四二年一月一六日から寒川知幸の電子高校に対する融資をそれまでの貸主寒川知幸に代って肩代りしたが、その際被告人岩切がとった利息も月五分の割合であったこと、本件後の昭和四三年六月頃から被告人岩切が中村に貸付けた二、九〇〇万円の貸金に対して被告人岩切のとった利息も月五分の割合であったこと、昭和四二年一月か二月頃、被告人大野が被告人岩切から一〇〇万円を借受けた際の利息も月五分の割合であったこと、以上の各事実が認められる。

以上認定の各事実によれば、被告人岩切は、他に金銭の貸付をする場合、その利息は月五分の割合で貸付けるのがほとんど常であったことから、本件の利息についても、被告人会社としては月五分の割合で前記金銭の貸付をし、それだけの利息を取得してきたもので、中村の支払利息金中、その余は被告人大野が前記金融の仲介手数料として取得していたものと認定するのが相当である。

なお、前記認定の支払利息の中には、一〇日で一割、二〇日で一割と月単位で決められた利率ではなく、一〇日単位又は二〇日単位で利率が決められた場合があるが、右認定の各事実及び前記(三)で認定したこれらの場合の利率引き上げのいきさつからしても、これらの場合は被告人会社が一〇日で五分、又は二〇日で五分の割合の利息をとり、その余を被告人大野が同様に仲介手数料として取得していたと認めるのが相当である。

ただ、前記(三)、(1)の昭和四〇年一〇月一五日の一、五〇〇万円融資に対する月五分の割合による三か月分の利息二二五万円については、中村の供述調書によれば、右一、五〇〇万円融資に際し、中村が被告人大野のために、別途その仲介手数料の意味で、被告人大野の末吉源治借入金五万円と中川勝一借入金一〇万円の合計一五万円の債務を返済してやったことが認められるので、右利息二二五万円は、すべて被告人会社が取得したものと認められる。

以上により被告人会社取得の利息と被告人大野取得の金融仲介手数料とを区別してまとめると、別表(四)の被告人会社から中村勇夫に対する簿外貸付経過表の利息欄に記載のとおりとなる。

(五) 右利息の帰属主体が被告人会社か被告人岩切個人かについて

ちなみに右の点について付言するに、もう既に明らかなように、中村への前記認定の一連の貸付は、被告人会社の赤江農協に対する預金という形式を用いて出発していること、中村への前記貸付に使われた各小切手は、すべて被告人会社振出の小切手であったこと、また、右貸付につき、谷口は、常に被告人会社の事務所で貸付金の右小切手や現金を受領し、元金の返済も右事務所で行ってきたことの各事情から、中村への前記認定の一連の貸付の主体は、被告人会社であると認められ、従って、その利息の帰属主体も、当然のことながら被告人会社であると認められる。

(六) 検察官主張の受取利息中、昭和四二年六月一六日の約束手形割引料の二〇〇万円の点について

検察官は、中村は被告人大野を通じて、昭和四二年六月一六日に同日宮崎信用金庫大淀支店振出の額面一、〇〇〇万円の保証小切手一通と宮崎住宅生活協同組合振出の額面一、〇〇〇万円の約束手形二通の割引きを被告人会社に依頼し、その割引料として二〇〇万円を差し引かれており、この二〇〇万円につき、被告人会社と被告人大野がそれぞれ右約束手形の割引料あるいはその仲介手数料として一〇〇万円ずつ取得したと主張し、中村勇夫の昭和四四年七月二六日付大蔵事務官に対する質問てんまつ書によれば、中村は、右住宅生協に勤務していた木下孝志から別府霊園の理事と称する宇都宮重隆を紹介され、別府霊園は約二七億円に上る土木工事を施行するが、この工事を請負うためには二、五〇〇万円を渡しておけばよいといわれ、右二、五〇〇万円の金策のために、昭和四二年六月一六日、右一、〇〇〇万円の保証小切手一通と、右住宅生協振出の一、〇〇〇万円の約束手形二通を被告人大野に渡し被告人大野が右小切手及び約束手形を被告人会社で割引いてもらい、割引料二〇〇万円を差し引いた二、八〇〇万円を被告人大野から現金で受取り、内三〇〇万円を宮崎信用金庫の預金に戻し入れ、残りの現金二、五〇〇万円を別府霊園へ持って行ったというのである。

右中村の質問てんまつ書の記載に副う証拠をみるに、宮崎信用金庫の伝票綴(同押号の六三)及び中村秀一作成の証明書(37、三七三)によって右宮崎信用金庫大淀支店振出の一、〇〇〇万円の小切手の存在が前山国義作成の証明書(97、三七八)によって、右宮崎住宅生活協同組合振出の二通の約束手形の存在がそれぞれ認められ、また中村秀一作成の証明書(34、三七九)によれば、昭和四二年六月一六日宮崎信用金庫の中村勇夫名義の普通預金に三〇〇万円が入金されている事実が認められ、以上は、いずれも中村の前掲質問てんまつ書の記載の信用性を裏付けるものといえる。

更に、被告人大野の検察官に対する各供述調書(昭和四五年一一月一七日付七枚綴のもの、同月一八日付五枚綴のもの)によれば、中村が、別府霊園の工事を請負うために二、五〇〇万円を作ることになり、右の保証小切手と住宅生協振出の約束手形二通を被告人大野の所に持参し、被告人大野に右小切手及び約束手形による融資を頼んだ事実を認めることができる。

右のとおりで、中村が当時、二、五〇〇万円の金策をするために、右の保証小切手及び約束手形二通の割引を被告人大野に依頼し、これを受けた被告人大野が被告人岩切に右の割引を依頼して(右小切手の裏面に岩切の印が押捺されていることから推認できる)、割引料として二〇〇万円を右小切手及び約束手形の金額から差し引かれた残額二、八〇〇万円だけが中村の手に入った事実を認めても不当でないといえる。

ところで、被告人大野が右割引を依頼してこれに応じたのは、被告人会社か、被告人岩切個人なのか、必ずしも明らかではない。右の保証小切手及び約束手形の割引は、前記認定の被告人会社が赤江農協の管理課長谷口秀精を通じて中村に金銭を貸与してきた貸付とは全く形態が異なり、中村が被告人大野に直接割引を依頼していることから、すぐに右の割引先を従前の金銭貸借と同様に被告人会社ということができないし、また、右の保証小切手の額面にある「岩切」の押印は被告人会社の代表者印というよりは、被告人岩切個人の印と見ることもできることから、右の割引料を被告人会社が取得したとする検察官の主張は、必ずしもその証明が十分とはいえない。

また、検察官は、前記のとおり右割引料二〇〇万円のうち一〇〇万円を被告人大野が取得したと主張するが、本件の保証小切手ならびに約束手形の割引依頼に関し、被告人大野が仲介手数料を取得したとする証明は必ずしも十分とはいえない。それは、前記のとおり右の割引依頼は他の被告人会社と中村間の金銭貸借とはその形態を全く異にしていること、右の割引料二〇〇万円は、どのような利率に基づくものか明確ではなく、従って、その内に被告人大野の取得分をどのように含めていたかも明らかでないこと、前記別府霊園の工事請負の件については、被告人大野も中村とともに別府まで赴き共同で交渉に当っていることからして、被告人大野に右割引に際して仲介手数料をとる意思があったかどうかも疑わしいこと等の事情に照らせば、被告人大野が右の割引手数料を取得したと認定するには、なお合理的な疑問が残るからである。

右のとおりであり、結局、被告人会社の右の割引料の受取については、その証明が十分とはいえないから、これをその収入に含めないこととする。

二、被告人会社の簿外仮名預金による受取利息の除外について

検察官主張の右簿外預金は、判示第一の一及び二の各事実にかかわるものとして宮崎銀行橘通支店の山下桂子名義の普通預金と池田銀行本店の押川健治名義の普通預金並びに判示第一の二の事実にかかわるものとしていずれも宮崎銀行橘通支店の黒田清市、川崎弘及び富永二郎名義の各普通預金である。そこで以下右各預金ごとに検討する。

(一) 右山下桂子名義の普通預金関係

近藤康夫作成の証明書(11、四六〇)によれば、当時、宮崎銀行橘通支店における山下桂子名義の普通預金口座は三口あったのであるが、検察官主張の右山下桂子名義の普通預金は、そのうちの口座番号一七四九Aのものであることが、その主張の利息金額に照らして明らかであるところ、山下こと岩切桂子の検察官に対する昭和四四年一一月二八日付供述調書によると、右口座番号一七四九Aの山下桂子名義の普通預金は、被告人会社の簿外仮名預金であることが認められ、更に、右の近藤康夫作成の証明書によると、右預金による受取利息は、

(1) 判示第一の一の事実の関係では合計七〇一円

(2) 判示第一の二の事実の関係では合計二、二〇一円

であったことが認められる。

(二) 右押川健治名義の普通預金関係

右の池田銀行本店の押川健治名義の普通預金口座は、後記第六で詳述のとおり、被告人会社が昭和四一年九月八日、判示第一の一の事実に関する山田商事株式会社なる仮装仕入先からの架空仕入の計上の手段として開設したもので、右預金が被告人会社の簿外仮名預金であることは明らかである。そして、広重清作成の証明書(67、六七)によると、右預金による被告人会社の受取利息は、

(1) 判示第一の一の事実の関係では合計七円

(2) 判示第一の二の事実の関係では合計七六五円

であったことが認められる。

(三) 右黒田清市、川崎弘及び富永二郎名義の各普通預金関係

検察官は、右黒田清市ら三名の名義による各普通預金は、いずれも右(二)の池田銀行本店における押川健治名義の普通預金の解約による払戻金を預金したものであると主張する。なるほど、後記第六で説明のとおり、右押川健治名義の普通預金は昭和四一年一〇月三日に解約されてその元利合計八一五万三、五八六円が被告人会社に払戻されており、また、第五回及び第六回公判調書中の証人矢野温三の供述部分並びに伝票綴(同押号の一九)によると、右押川健治名義の普通預金の解約の日と同じ日に右黒田清市ら三名の名義による普通預金口座が宮崎銀行橘通支店に開設されていること(但し、〆後扱い)、その時の右黒田清市ら三名の名義による預金額の合計が九〇〇万円で前記押川健治名義の普通預金の解約払戻金額と近似していること、しかも、右黒田清市ら三名の名義による普通預金の開設に当って、宮崎銀行行員矢野温三は右の九〇〇万円を被告人会社の事務所において当時被告人岩切の内妻で被告人会社の事務をとっていた山下桂子から受取ったことが認められ、これらの事情に照らせば、右黒田清市ら三名の名義による普通預金は、前記押川健治名義の普通預金の解約払戻金を分散して預け入れた被告人会社の預金であると疑われる理由はある。

しかしながら、前記押川健治名義の普通預金の解約払戻金額と右黒田清市ら三名の名義による各普通預金の預入金額の合計が近似するとはいえ、これらの金額を対比してみる限り前記押川健治名義の普通預金の解約払戻金が右黒田清市ら三名の名義による各普通預金に預け入れられたことは、にわかに決めつけ難いところ、右の第五回及び第六回公判調書中の証人矢野温三の供述部分によっても、右黒田清市ら三名の名義による各普通預金か被告人会社の預金か被告人岩切個人の預金かの判定は困難であり、また、この点に関する山下こと岩切桂子の検察官に対する供述調書(昭和四四年一一月一三日付)によっても、右各普通預金に供された前記の九〇〇万円の出所を明らかにすることができない。そして、他に右黒田清市ら三名の名義の各普通預金が被告人会社の預金であると確定するに足る証拠はなく、却って、被告人岩切個人に当時右のような金額の預金をする資力がなかったとは証拠上決めつけ難いから、前記のように右黒田清市ら三名の名義の各普通預金が被告人会社の預金であると疑うことができても、更にそのとおりに認定するまでには証明が十分でない。

従って、右各普通預金の利息は判示第一の二の当該事業年度における被告人会社の収入に加えることができない。

なお付言するに、前記のような検察官の主張のもとで、右黒田清市ら三名の名義の各普通預金が被告人会社の預金は認められなくても、本件での被告人会社の所得逋脱の立証はすべて損益計算法によるものであるから、このことは後記第六で説示の山田商事株式会社なる仕入先からの架空仕入の判断に格別の影響を及ぼさない。

三、以上により、被告人会社の各事業年度ごとの受取利息の逋脱額は次のとおりとなる。

(一) 判示第一の一の昭和四〇年一〇月一日から昭和四一年九月三〇日までの事業年度における受取利息の逋脱額

前記一で認定したとおり、被告人会社が中村勇夫に対する金銭貸付により昭和四〇年一〇月一日から昭和四一年九月三〇日までに受取った利息の合計は一、五七五万円であるが、そのうち昭和四一年九月二九日に受取った利息三〇〇万円は、同年一〇月一日から同年一一月三〇日までの前記利息であり右利息は全額次事業年度の所得に計上されるべきものであるから、右三〇〇万円を控除した一、二七五万円が本事業年度の中村からの受取利息として計上されるべきものである。そして、これに前記二で認定した宮崎銀行橘通支店の山下桂子名義の簿外普通預金の受取利息七〇一円、及び池田銀行本店の押川健治名義の簿外普通預金の受取利息七円を加算すると、本事業年度の受取利息の逋脱額は一、二七五万七〇八円となる。

(二) 判示第一の二の昭和四一年一〇月一日から昭和四二年九月三〇日までの事業年度における受取利息の逋脱額

前記一で認定したとおり、中村に対する金銭貸付により昭和四一年一〇月一日から昭和四二年九月三〇日までに被告人会社が受取った利息の合計は、三、〇七五万円であるが、前記の前事業年度に受取った前払利息三〇〇万円を本事業年度の利息に加算し、右会計のうち、昭和四二年九月二九日に受領した二〇〇万円の利息は、同年一〇月一日から同月三一日までの前払利息であるから右二〇〇万円を控除し、更に、同年七月二五日に受領した一五〇万円の利息は、同日から同年一〇月二四日までの利息であるから、日割計算により同年一〇月一日から同月二四日までの利息に該当する分三九万一、三〇四円(〈省略〉)を控除した三、一三五万八、六九六円が本事業年度の中村からの受取利息として計上されるべきものである。そして、これに前記二で認定した宮崎銀行橘通支店の山下桂子名義の簿外普通預金の受取利息二、二〇二円、及び池田銀行本店の押川健治名義の簿外普通預金の受取利息七六五円を加算すると、結局本事業年度の受取利息の逋脱額は三、一三六万一、六六三円となる。

第五判示第一の一及び二の各事実に関する簿外接待交際費の支出及び雑収入の除外について

右の点については、山下桂子こと岩切桂子の検察官に対する昭和四四年一一月二八日付供述調書、被告人岩切の当公判定における供述(第六五回公判期日)、検察事務官作成の昭和五五年七月二四日付捜査報告書、近藤康夫作成の証明書(11、四六〇)のうちにある口座番号一七四九Aの山下桂子名義普通預金元帳、押収してある手形受払帳(同押号の一四)及び証と題する書面(同押号の一五)を総合して検察官主張の事実を認めることができ、

(一)  判示第一の一の事実の関係では、右簿外接待交際費が三四万三、七〇〇円、雑収入が三六万七、六一四円

(二)  判示第一の二の事実の関係では、右簿外接待交際費が六一万二、七〇〇円、雑収入が五五万七五七円と認められる。

なお、被告人会社及び被告人岩切の弁護人らは、右各雑収入金中には被告人岩切個人や被告人会社の従業員所有の廃品の売却代金も含まれているので、これらを含めてすべてを被告人会社の益金に計上するのは不当であると主張する。しかし、右弁護人ら主張のように右各雑収入金中に被告人会社の右のような個人が出した廃品の売却代金が含まれているとしても、前記各証拠に照らせば、右廃品の売却代金は既に個人が捨てた(所有権を放棄した)廃棄物を被告人会社で売却して得たものとみられるから、これらの売却代金も被告人会社に帰属するものというべきであって、右弁護人らの主張は当を得ない。

第六判示第一の一の事実に関する山田商事株式会社なる仕入先からの架空仕入れについて

この点に関する被告人会社の納品書綴(請求書を兼ねる・昭和四五年押第四一号の一一)、買掛金振替伝票綴(同押号の七乃至一〇)及び仕入帳(同押号の二)によれば、被告人会社は、昭和四一年三月二四日から同年七月二七日までの間、大阪市西区道頓堀四の七所在の山田商事株式会社(以下、山田商事という。表記の代表取締役山田信吉)なる仕入先から別表五の山田商事からの架空仕入内訳表記載のとおり前後二四回にわたり、平板、釘など総額九〇八万四、八六四円相当の商品を仕入れたことになっている。そして右仕入帳によると、被告人会社は、山田商事に対し右仕入代金を、

(一)  昭和四一年九月六日に

小切手金額 九六万二、〇五〇円

支払人 株式会社宮崎銀行橘通支店

支払地 宮崎市

振出日 同日

振出地 同市

振出人 岩切商事株式会社

の小切手(同押号の一六の伝票綴中に存在)で、

(二)  同年四月二八日に

手形金額 三三八万八、八五一円

支払人 白地

満期 同日

支払地 宮崎市

受取人 白地

振出日 白地

振出地 大阪市西区

振出人 山田商事株式会社

支払場所 株式会社宮崎銀行橘通支店

引受人 岩切商事株式会社

引受日 同年六月二二日

の為替手形(同押号の一七の伝票綴中に存在)で、

(三)  同年九月三〇日に

手形金額 四七三万三、九六三円

支払人 白地

満期 同日

支払地 (二)の手形と同じ

受取人 白地

振出日 白地

振出地 (二)の手形と同じ

振出人 右同

支払場所 右同

引受人 右同

引受日 同年同月一日

の為替手形(同押号の一八の伝票綴中に存在)でそれぞれ決済したものとされており、また、右(一)乃至(三)の小切手及び各為替手形の授受に対応するものとされる山田商事作成名義の領収証三通(同押号の三乃至五)も存在し、右仕入帳、関係の元帳(同押号の一)及び法人税決定決議書綴(同押号の一三)によれば、右山田商事からの各仕入金額は、被告人会社の昭和四一年九月決算における公表損益計算書の仕入金額中に計上されていることが明らかである。

しかしながら、次の(1)乃至(4)の各事項を総合すると、山田商事なる仕入先は実在せず、右各仕入れは架空に計上されたものであり、従って、前記小切手及び為替手形によるその仕入代金の支払いも実際にはなかったものと認めざるを得ない。

(1) まず山田商事及びその代表取締役山田信吉の存在そのものが捜査を尽しても判明しなかったことである。すなわち、前記各領収証(同押号の三乃至五)、納品書綴(同押号の一一)及び各為替手形(同押号の一七及び一八)には、山田商事の所在地は、大阪市西区西道頓堀四-七と印刷又はゴム印で明記され、また、右各領収証及び納品書綴には、その電話番号を(五三八)二七四一と印刷してあるが、証人小林文治に対する尋問調書によると、昭和四四年五月ころ大阪国税局員であった同人が山田商事の所在について調査した結果、右住居表示地付近の住宅地図には山田商事なる会社の表示はなく、さらに、その現地に赴いても山田商事なるものは全く見当らなかったばかりか、右住居表示地には汐見木材株式会社という会社が存在し、約三〇年来同社に勤務しているという同社の従業員は山田商事や山田信吉なるものを全く知らなかったこと、電話帳を調べたところ、大阪市内の昭和四二年版に山田商事株式会社という名称の会社が登載されていたが、同会社は大阪市南区に所在し、鉄鋼製品とは無関係の電機器具の販売を営んでいたこと、大阪法務局備付の商業登記簿の中から発見された唯一の山田商事株式会社と称する会社は靴の販売会社であるばかりか、既に解散の登記がなされていたこと、前記の電話番号五三八局二七四一番の電話は、山田商事とは無関係の磯崎工業株式会社が加入、使用しているものであったこと、また、証人西村利光に対する尋問調書によると、昭和四四年一一月ころ大阪地方検察庁の事務官であった同人が前記山田商事の表示所在地を管轄する警察派出所、税務署や区役所などを通じて山田商事及び山田信吉なるものの所在を調査した際にも、これらの所在は全く掴めなかったこと、さらに、証人磯崎良一に対する尋問調書によると、同証人は、昭和三七年ころに設立された前記磯崎工業株式会社の代表取締役であるが、前記の山田商事の電話番号とされている五三八局二七四一番の電話は右磯崎工業株式会社に架設されているもので、山田商事や山田信吉なるものは全く知らず、もちろん、右電話を山田商事なるものに使用させたこともなく、右電話に山田商事の電話がかかってきたことも記憶にないこと、そして、右磯崎自身が山田商事の名義で納品代金の請求書を発行したことはないし、同人は被告人会社も知らず、被告人岩切を見たのも本件での証言の際が、初めてであったことの各事実がそれぞれ認められ、以上の各事実に加えて被告人岩切自身も山田商事及びその代表取締役山田信吉なるものの所在を明らかにできないことに照らすと、右の山田商事及び山田信吉なるものは、その存在自体いかに手を尽しても把握しようのないものであるといわねばならない。この点について、被告人岩切及びその弁護人らは、山田商事及びその代表取締役山田信吉なるものの所在が判明しないのは、山田商事からの仕入商品が正常な取引ルートで山田商事に入ったものではなく、生産者からの引き上げ品又は工事の浮かし資材であったことなどの事情により、山田商事の関係者が、その正体を明かすことを好まなかったためと考えられ、一方、被告人岩切としても、本件山田商事からの仕入が、買主の注文によらずに売主が買主の店頭に現れて商品の売込みをし、売買契約内容の折衝、商品の納入、代金の支払等取引のすべてが買主の店頭で実行される形態の長期契約によらない仕入であるいわゆるスポット買いであったから、仕入先の山田商事の所在等を確認する必要がなかったことによるものであると弁解する。しかしながら、前記の各公表帳票に記載されている山田商事からの商品の仕入は、短期的な取引とはいえ、約四か月間にわたり二四回も反履継続されていて、単発的な取引でなく、その代金額も合計で九〇〇万円を超えて当時としては比較的高額の取引であり、しかも、前記各公表帳票によれば、右仕入代金は、前記のとおり、現金ではなく小切手及び為替手形により三回にまとめて支払われたことになっており、そのうえ、右取引中の第一回及び第二回目の各仕入分の代金の支払にあたえる前記(一)の小切手の振出交付が、逆に第三回目以降の各仕入分の代金の支払のためになされた前記各為替手形の引受の日より後で、右第二回目の仕入の日から五月以上、右取引が全くと絶えてしまってから一か月以上も経過した昭和四一年九月六日になされたというのであるし(同押号の二の仕入帳及び三乃至五の各領収証参照)、また、右取引中の第三回から第一二回目までの各仕入分の代金の支払のために引受けられた前記(二)の為替手形の満期が、右第一二回目の仕入の日から約四か月も先になり、さらに、第一三回以降の各仕入分の代金の支払のために用いられた前記(三)の為替手形については、右取引が全くと絶えてから一か月以上も経過した後に引受され、同じく二か月以上も経過してから満期が到来するということになるのであって、これら代金の支払方法を含めた右公表の取引の状況に加えて被告人会社としては右山田商事なるものの所在を明らかにできないことによって課税上右公表の仕入を否認される危険が当然予測されたであろうに、その所在を確めなかったことについての特別の事情も証拠上見当らないことに徴すれば、要するに山田商事あるいは山田信吉なるものは実在するも、その所在を知ることができないだけであるという被告人岩切及びその弁護人らの右弁解は、およそ受け容れ難いものである。

(2) 次に、前記の(二)及び(三)の各為替手形は、押川健治なる者の裏書によって大阪府池田市城南町二丁目六番地所在の池田銀行本店に取立依頼され、右各手形金は、右押川健治名義の同銀行の普通預金口座に振替入金されたが、右の押川健治なる氏名者の存在は捜査を尽くしても判明せず、右振替入金の後に押川健治の名で右預金口座を解約して右各手形金を引き出した者が他ならぬ被告人岩切であったと認めざるを得ないことである。すなわち、広重清及び近藤康夫作成の各証明書(証明書番号67及び12)並びに押収してある同押号の一七及び一八の各伝票綴によると、昭和四一年九月八日、池田市石橋三の一二に住所があるとする押川健治なる者が、右池田銀行本店に普通預金口座を開設し、前記(二)及び(三)の各為替手形に右押川名義で裏書きをしたうえ、同銀行にその取立を依頼したこと、その後、右各手形は各々満期に決済されて、その各手形金が右普通預金口座に振替入金されたが、右普通預金口座は同年一〇月三日に同銀行本店の店頭に現われた押川健治と称する人物によって解約され、右各手形金額及び利息を含めた預金残高合計八一五万三、五八六円が同人に払戻されたことがそれぞれ認められるところ、まず、証人小林文治及び同妻木龍雄に対する各尋問調書によると、昭和四四年当時大阪国税局勤務の右小林及び大阪地方検察庁検察事務官の右妻木による調査、捜査の結果、右押川健治なる者は、前記住居地の池田市役所の住民登録簿や選挙人名簿に登載されておらず、管轄警察官派出所の昭和四一年九月以降の案内簿を調べても見当らないというのであって、その存在さえ不明というほかない。そして、証人服部盛隆に対する尋問調書によると、前記普通預金口座が解約された当時池田銀行本店に勤務し、窓口でその手続を担当した同証人は、その証言の際傍聴席にいた被告人岩切を指して同被告人が前記普通預金口座の解約に現われた押川健治と称する人物に非常によく似ていると証言しており、また、第一六回公判調書中の被告人岩切の供述部分、第一六回及び一八回公判調書中の証人甲斐則一の供述部分並びに同人作成の鑑定書によると、当時熊本県警察本部鑑識課員であった同人は、前記押川名義の普通預金口座の解約の際に押川健治と称する者によって作成された普通預金請求書中の「押川健治」なる氏名の記載が被告人岩切の筆跡によるものであると鑑定しているのであって、これらのことを総合すれば、池田銀行本店において前記普通預金口座を解約して前記各手形金を含むその預金の払戻を受けた押川健治なる人物は、実は被告人岩切本人であったものと認めざるをえないのである。被告人岩切及びその弁護人らは、右服部盛隆の証言及び甲斐則一の鑑定は共に信用できないと主張するが、先ず右服部盛隆の証言についてみるに、その証言によれば、前記普通預金口座の解約は、同証人が池田銀行に入行後いまだ日の浅い時期のことで、一度に八〇〇万円を超える多額の現金の払戻であったことから、同証人としては、当時同僚と右預金が脱税にかかわるものではないかと話し合ったこともあり、特に記憶に残る仕事であったこと、また、同証人は、右証言時より四年以上前の昭和四四年八月ころにも国税査察官に対し、被告人岩切の写真を見てその写真の人物が押川健治なる者に非常に良く似ている旨供述していることが認められ、これらの事実に加えて、同証人は右証言当時も池田銀行の行員で本件につき何ら利害関係のない第三者であり、その証言自体にも作為や迎合の様子が見られないことなどの諸事情に照らすと同証人の証言は十分に信用するに足りる。なお、同証言では、前記押川健治名義の普通預金口座の開設に来た人物については、その者が前記のその解約に来た者と同一人であったかなどその識別が曖昧であるが、このことは、むしろ同証人がいたずらに記憶をまげた証言をしなかったことを示すものであり、少なくとも右預金の解約に来た人物が被告人岩切に酷似している点については、同証言は一貫しているのであって、その信用性を左右するほどのものではない。また、被告人岩切及びその弁護人らは、同証人は証言の直前に検察官からその場にいた被告人岩切が前記の押川健治と称する人物であるかのように暗示されていたとして同証人の証言の信用性を争うが、そもそも、そのような事実の存在については、第一六回公判調書中の被告人岩切の供述部分に憶測的な供述記載があるだけで、他にこれを疑わせるような証拠もなく、同証言自体にもそのようなことはうかがわれない。次に、前記甲斐則一の鑑定についてみるに、同じ筆跡鑑定として同一の鑑定資料に基づき同鑑定とは全く結論を異にする田北勲作成の筆跡鑑定書があるが、証人田北勲に対する尋問調書によると、右田北は、本件弁護人塚田善治の依頼により右筆跡鑑定書記載の鑑定を行ったもので、その鑑定に当っては甲斐則一作成の鑑定書の内容を見ていないと言い張るけれども、右田北作成の筆跡鑑定書には鑑定資料第五号の用紙がコクヨ製のものである旨、甲斐則一作成の鑑定書の内容を見なければわかるはずのないことが記載されているのであって、右田北の筆跡鑑定は甲斐則一の鑑定との関係である意図をもってなされたのではないかと疑われるのであり、一方、甲斐則一の鑑定は、鑑定経過等その内容の上で右田北の鑑定に比べて特に劣るものでもなく、前記服部盛隆の証言によっても支えられることに照らせば、右田北の鑑定よりは甲斐則一の鑑定に従うのが相当と認められる。

(3) 本件仕入に関する山田商事作成名義の仕入代金請求書の形式による各納品書(同押号の一一)は、それぞれ作成日付順に作成されたものではなく、まとめて作成されたものである。すなわち、第六回及び第一四回公判調書中の各検証の結果と題する部分並びに宮崎県警察本部鑑識課員富永欣一作成の鑑定書によると、右各納品書は、カーボン紙を使用して記載されたものであるが、これらの中にはそのうちの他の納品書の記載事項の写っているものが多数存在し、特にその作成日付が先の納品書に後日付の納品書の記載事項の写っているものが三通も存在することが認められるのであって、このような事実に照らせば、右各納品書はまとめて作成されたものと考えられる。

(4) 右各納品書に対応する被告人会社の各買掛金振替伝票(同押号の七乃至一〇)もその都度作成されたものではなく、まとめて作成されたものである。すなわち、右各買掛金振替伝票が含まれている買掛金振替伝票(同押号の七乃至一〇)を見ると、他の仕入先の買掛金振替伝票については、一部に漏れているものがあっても殆ど全部にわたり一連番号が付されているのに、山田商事を仕入先とするものには全部にわたって一連番号が付されておらず、このことに前記の各納品書がまとめて作成されたものと見受けられることと、当時被告人会社の事務員で仕入に関する記帳を担当していた田代佳世子の検察官に対する昭和四四年一一月一九日付供述調書を総合すると、右山田商事を仕入先とする各買掛金振替伝票は昭和四一年七月にまとめて作成されたものと認められる。

以上(1)乃至(4)の各事情を総合すると、山田商事なるものからの前記仕入は、架空に計上されたものと認定すべきである。

なお、被告人岩切及びその弁護人らは、右山田商事からの仕入商品は現に被告人会社からその得意先に販売されていると主張するが、被告人会社の関係各売掛帳(同押号の一四〇乃至一四五)にはその指摘する販売の記載があっても、それらの販売商品がはたして山田商事から仕入れたものであるか否かについては、これを肯定するような証拠はなく、被告人岩切自身もその関連を説明できないのであり(第五八回公判調書中の被告人岩切の供述部分)、却って、前記認定の(1)乃至(4)の各事実に徴すると、その関連も否定しなければならない。

また、右弁護人らは、仮に右山田商事からの仕入が架空であっても、経理上その商品に相当する資産額が当該営業年度に架空の益金として計上されることになるから、被告人会社のその営業年度の所得額を減少させる結果をきたさないと主張する。しかし、被告人岩切の当公判廷(第六五回公判期日)における供述によると、被告人会社では、当時から期末在庫商品の棚卸は実地で行い、その実地棚卸高を公表してきたというのであるから、右弁護人らの主張は採用できない。

第七判示第一の二の事実に関する検察官主張の田中直人ほか一一名を仕入先とする架空仕入について

被告人会社の関係仕入帳(同押号の三四)には、右一二名のうち田中直人、富岡精次、藤田吾一、岡村覚二及び金森七郎を仕入先とする各商品の仕入が計上されており、また、関係領収書綴(同押号の四三)中には、右一二名のうち残余の泉幸生、北野道夫、坂田年夫、白木明年、杉原保、菅原成吉及び立山国夫なる者らからの商品の仕入に対する代金支払の領収証があり、これら帳票上、被告人会社では当該事業年度中に右一二名から総計一、七九五万一六九二円の商品を仕入れたことになっていて(各別の仕入内容については後記)、被告人会社の関係元帳(同押号の五〇)及び法人税確定申告書(同押号の六一)によると、右一二名からの仕入金額は被告人会社の昭和四二年九月決算における公表損益計算書の仕入金額中に計上されていることが明らかである。

ところで、先ず、右田中直人ほか一一名の所在についてみるに、右田中直人ら各人作成名義の本件仕入に関する代金の請求書又は領収証(同押号の三八、三九、四一、四三)によれば、田中直人は、宮崎市恒久四七の九に、富岡精次は、同市南花ケ島一七に、藤田吾一は、同市船塚に、泉幸生は、同市有明町二五の二に、杉原保は、同市江平町六の七三に、立山国夫は、同市中村町四の二にそれぞれ在住するものとされるが、第二三回公判調書中の証人矢野誠一郎の供述部分によると、宮崎地方検察庁検察事務官の同証人が右六名の昭和四〇年ころから昭和四五年ころまでの所在を調査したところでは、右六名は、宮崎市役所の住民登録簿や管轄警察官派出所の案内書に全く見当らず、前記各住居地域の区長や付近住民に面接したり、その住居地に臨んで調査しても、これらの者の所在は全くつかめなかったこと、前記の富岡の住居地は墓地であったこと、前記の泉の住居地には、右泉なる者を全く知らない経営者のクリーニング店が存在したこと、そして、前記杉原の居住地については当該番地自体が存在しないものであったことが認められ、また、前同様の請求書又は領収証(同押号の四〇、四二、四三)によれば、右岡村寛二は、宮崎市宮田町三の二に、金森七郎は、同市松田町一の七に、北野道夫は、同市旭通二の九に、坂田年夫は同市広島通四の七に、白木明年は、同市広島通二の二五に、菅原成吉は、同市東雲町四の七にそれぞれ在住するものとされるが、第二三回公判調書中の証人釘村重治の供述部分によると、同地方検察庁事務官の同証人がこれら六名につき昭和四〇年から同四二年ころまでの所在調査をしたところでは、これらの六名についても、前記証人矢野誠一郎と同様の手だてを尽しても全くその所在がつかめなかったこと、そして右北野及び坂田については、当該番地自体が存在しないものであったことが認められるのであって、以上の右事実によれば、本件仕入先とされている右田中直人ほか一一名は、その存在自体把握しようのないものである。

次に、右田中直人ほか一一名の本件仕入に関する代金の請求書及び領収証についてみるに、そのうち、掛仕入先とされている田中直人、富岡精次、藤田吾一、岡村寛二及び金森七郎なる者からの被告人会社宛の各請求書(同押号の三八乃至四二)並びに領収証(同押号の四四、四五)は、いずれも市販の用紙を用い、領収者の押印も三文判を押捺して作成されたものであり、しかも、滝口由子の検察官に対する供述調書によれば、それらのうちの藤田吾一作成名義の各請求書及び領収証は、当時被告人会社の従業員であった右滝口が作成したものであるし、また布施和子の検察官に対する各供述調書によると、同じく右岡村寛二作成名義の各請求書及び領収証は、当時被告人会社の従業員であった右布施が作成したものであることが認められ、一方、残余の現金仕入先とされている泉幸生、北野道夫、坂田年夫、白木明年、杉原保、菅原成吉及び立山国夫なる者からの被告人会社宛の各領収証(同押号の四三)は、すべて市販の同じ製造元による同じ規格の用紙を用い、領収証の押印も三文判で押捺して作成されたものであることが、これらの外形から明白である。

更に、前記の掛仕入先とされている田中直人ら五名からの仕入関係では、前記仕入帳によると、これらの者からの仕入は昭和四二年八月及び同年九月中になされたことになっているところ、被告人会社から昭和四二年八月及び九月分の買掛金月報がそれぞれ二つ押収されていて(同押号の一一〇及び一一八)、これらによると、右八月分の一つの月報(同押号の一一〇)には、岡村寛二と金森七郎からの各仕入が追加記入されたうえで、いずれも抹消されており、田中直人、富岡精次及び藤田吾一からの仕入が全く記載されていないのに、同月分の他の一つの月報(同押号の一一八)には、右五名からの各仕入が他の仕入と並べて記載されていること、また、右九月分の一つの月報(同押号の一一〇)には、その仕入商店欄にも右五名の氏名は全く掲記されておらず、他の仕入の記載の行間にも右田中直人、富岡精次及び藤田吾一からの仕入が鉛筆書き(同月報はペン書き)でそう入されているのに対し、同月分の他の一つの月報(同押号の一一八)には、右の別の月報に鉛筆書きでそう入されていた田中直人ら三名からの各仕入がそのまま記載されていることが認められるのであって、右田中直人ら五名を仕入先とする仕入に関して、被告人会社の買掛金月報に工作を施した形跡が認められる。

そこで、以下、右田中直人ほか一一名からの仕入関係について、別的に検討する。

(一)  田中直人関係

被告人会社の関係仕入帳(同押号の三四)の田中直人の口座部分によると、同人からは昭和四二年八月三一日、同年九月五日及び同年同月一五日の三回にわたり、合計二七二万四、六五九円の鋼材を仕入れたことになっている。

ところで、先ず、右仕入帳によると、右田中直人からの仕入中、その昭和四二年九月五日付の仕入の記帳のうちに、品名九×四・五、本数二、七九八、重量六、二九六、単価三六、金額二二六、六五六とする仕入の記載があり、他方、その富岡精次の口座の同月四日付の仕入の記帳のうちにも、同品名、同本数、同重量、同単価、同金額の仕入の記載があって、それぞれの末尾に鉛筆書きでその転売先として記入したものとみられる「山本」あるいは「山本組」との記載がある。そして、被告人会社の日南・小林方面売掛帳(同押号の四八)のうち山本組の口座部分の昭和四二年九月一九日付売上には、右の田中直人及び富岡精次からの仕入と品名、本数、重量が全く一致する品名九×四・五、本数二、七九八、重量六、二九六、単価三七、金額二三二、九五二との売上の記載があって、これらの帳簿の記載によれば、右の田中直人と富岡精二からの各仕入商品のいずれもが右山本組に転売されたかのように見受けられる。しかし、右株式会社山本組取締役総務部長の加島捨蔵の大蔵事務官に対する質問てん末書によると、山本組においては、昭和四二年六月から同年一二月の間に、右品名の九×四・五の鋼材を二度にわたって被告人会社から仕入れたことはなく、右品名の鋼材を被告人会社に返品したこともないというのであって、前記の被告人会社の仕入帳の田中直人及び富岡精次の口座中の記載は、不可解である。この点につき、被告人会社及び被告人岩切らの弁護人らは、最初田中直人から仕入れたものを山本組に納品したところ、その後に、その鋼材にクレームがついたため、これを全部被告人会社に持ち帰り、これと取り替えに富岡精次から仕入れたものを納品したのであると主張する。しかしながら、二、七九八本もの鋼材を全部取り替えたというのは不自然であるし、また、そうだとすれば、被告人会社の前記仕入帳と昭和四二年一〇月一日から昭和四三年九月末までの仕入帳(同押号の三五)によると、右田中直人からの仕入に対しては、そのすべてについて、昭和四二年一二月三〇日に仕入代金の内金一〇〇万円を支払い、昭和四三年二月一五日になってから残余につき返品処理をしたことになっており、このことと右弁護人らの主張との間には矛盾があって、右主張は合理性を欠き容認できない。

次に、前記当該営業年度の仕入帳(同押号の三四)の田中直人の口座の昭和四二年九月一五日付仕入部分には、品名一九×七・〇、本数七六、重量一、一八八との記載があり、その転売先として記入したものとみられる「多田他」という鉛筆書があって、これと納品書No.三五七六四の納品伝票(同押号の一一七の売掛原票綴)及び売掛帳(同押号の三六)の多田工務店の口座の各記帳によると、右の商品名一九×七・〇の仕入商品は、昭和四二年九月二五日に多田工務店に転売されたことになる。ところが、他方、右仕入帳の日商の口座のうち、同年同月一九日の仕入部分には、右と同じ商品名一九×七・〇、本数七六、重量一、一八六という記載があり、これと内海到着明細(同押号の三二)の東邦丸、八興、九月一八日の日商(株)分の記載によると、実際は、右の日商から仕入れた商品名一九×七・〇の七六本が前記納品番号三五七六四で多田工務店に転売されたものと認められるのであって、前記仕入帳の田中直人の口座の右商品の仕入についての記載も不可解である。なお、右内海到着明細(同押号の三二)について、被告人岩切及びその弁護人らは、現実の商品の動きを記載したものではなく、不正確であると主張し、また、第二六回乃至第二八回公判調書中の証人川崎ミサの供述部分によると、同証人は、右明細の作成者であるが、右明細は、商品が動く都度これに即して記帳していたものではなく、特に仕入商品の搬入地の内海港から直接転売先へ搬送された商品については現実にその仕入先や転売先を把握して作成したものではないとして、被告人岩切らの右主張にそうような供述をなしている。しかしながら、同証人の右各供述部分によると、同証人は、当時宮崎市大塚町にあった被告人会社の第三倉庫における倉庫係としての職責上、被告人会社の本店から、内海港に到着して右倉庫に入った仕入商品の在庫の有無等のついて問い合わせがあった場合には即答できる態勢を整えるために右明細を自発的に作成していたことが認められること、右明細の記載内容は、被告人会社の仕入、販売関係を記帳した他の公表帳簿の記載とほとんど矛盾していないこと、内海港に到着する仕入商品を逐次右川崎ミサに連絡していたとみられる被告人会社専務取締役山口重明の記帳にかかるメモ帳一冊(同押号の一二三)にも右内海到着明細と同様の記載があることなどの各事実に照らすと右内海到着明細の記載内容は、全般に信用することができる。そして、右明細の前記指摘にかかる日商からの仕入分についてみても、それらが多田工務店に転売された際の一キロ当りの単価は三七円であり(同押号の三六の売掛帳)、この単価に右明細記載の昭和四二年九月一八日に日商から東邦丸で仕入れて多田工務店に転売した仕入商品の合計重量八、九九七キロを乗じて得られる数字三三二八八九と同じ数字が、前記仕入帳(同押号の三四)の日商口座の昭和四二年九月一九日仕入中の右多田工務店に転売分に相当するとみられる商品の記載部分の末尾に鉛筆書きで記入された後に抹消された痕跡が認められるのであって((この点につき、被告人会社及び被告人岩切の弁護人らは、同年九月一八日に日商から仕入れた商品の合計重量は八、九一七キロであって八、九九七キロではないというが、これは右仕入帳の記載によるものであるところ、その仕入帳の記載中、「品名一九×五・〇、七二本、八〇六キロ」の記載が「品名一九×五・五、七二本、八八六キロ」の誤記であることによるもので、このことは、前記の納品No.三五七一九の納品伝票(同押号の一一七)及び売掛帳(同押号の三六)の多田工務店の口座部分並びに右内海到着明細の記載から明らかであって、右弁護人らの主張は当らない。))このことから、前記指摘の日商からの仕入商品中の一九×七・〇の鋼材七六本が多田工務店に転売されたことが裏付けられるうえ、右内海到着明細の記載が仕入商品の現実の移動に即したものであることが認められる。

以上のとおり、前記被告人会社の仕入帳の田中直人口座部分には、不可解な記載があって、このことと、前記のように田中直人なる者の存在自体が把握しようのないこと、前記認定の同人作成名簿の請求書及び領収証の形態のほか、関係の買掛金月報にも工作の形跡があることを綜合すると、右仕入帳に記載された田中直人らの仕入は、すべて架空に計上されたものと認めざるを得ない。

(二)  富岡精次関係

前記被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の富岡精次の口座部分によると、同人からは昭和四二年八月二五日、同年九月四日、四月一一日及び同月一六日の四回にわたり、合計四七一万七、九五四円の鋼材を仕入れたことになっている。

ところで、先ず、前記被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の三菱商事の口座部分によると、被告人会社は、昭和四二年八月一六日に三菱商事から他の商品と共に品名一三×六・五、一三×七・五及び一三×八・〇の鋼材を各六〇〇本仕入れているところ、前記内海到着明細(同押号の三二)の標目「盛福丸八興」、昭和四二年八月一六日の三菱商事の部分及び納品伝票綴(同押号の一一四)中の納品番号三一八九五の伝票によると、右の各六〇〇本仕入鋼材のうち、一三×六・五の一〇〇本、一三×七・五の五〇〇本及び一三×八・〇の二〇〇本は、昭和四二年八月二三日、被告人会社の重永運転手により、右納品伝票で志多組に転売されて、その清武現場に納品されており、被告人会社の熊谷・志多組関係売掛帳(同押号の四九)のうちの志多組の口座部分にもその旨の記載がある。他方、右仕入帳(同押号の三四)の富岡精次の口座部分によると、その昭和四二年八月二五日の仕入中に、同人から品名一三×六・五の鋼材を一〇〇本、一三×七・五の鋼材を五〇〇本、一三×八・〇の鋼材を二〇〇本仕入れた旨の記載があり、その末尾に鉛筆書きで、これらを志多組に転売したとの趣旨の記載がある。しかしながら、株式会社志多組取締役資材部長の田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書によると、昭和四〇年から同四三年までの被告人会社からの資材購入関係を記載した志多組の建材未払台帳で調べたところ、志多組が被告人会社から前記の品名一三×六・五、一〇〇本、一三×七・五、五〇〇本、一三×八・〇、二〇〇本の鋼材を仕入れて清武中学校の工事(前記の清武現場のこと)に使ったのは一度しかなく、これらを返品したこともないことが認められ、このことと、先に述べたとおり前記内海到着明細の記載が信用できることを併せ考えれば、右に指摘の鋼材の実際の仕入先は三菱商事であって、前記仕入帳の富岡精次からの右鋼材の仕入の記載は全く不可解である。

次に、前記(一)の田中直人関係で指摘したとおり、右仕入帳の富岡精次の口座部分の昭和四二年九月四日の記載中にも不可解な点がある。

以上のとおり、前記被告人会社の仕入帳の富岡精次の口座分には、不可解な記載があって、このことと、前記のように富岡精次なる者の存在自体が把握しようのないこと、前記認定の同人作成名義の請求書及び領収証の形態のほか、関係の買掛金月報にも工作の形跡があることを綜合すると、右仕入帳に記載された富岡精次からの仕入も、すべて架空に計上されたものと認めざるを得ない。

(三)  藤田吾一及び岡村覚二関係

被告人会社の関係仕入帳(同押号の三四)の藤田吾一の口座部分によると、同人からは昭和四二年八月二九日、九月三日及び同月一一日の三回にわたり合計二三七万三、三八一円の鋼材を仕入れたことになっている。また、右仕入帳の岡村覚二の口座部分によると、同人からは同年八月三一日に合計二〇八万六〇八〇円の鋼材を仕入れたことになっている。

ところが、右仕入帳の右藤田の口座部分のうち昭和四二年八月二九日の欄、右岡村の口座部分のうち同月三一日の欄、売上伝票綴(同押号の一一五、一一六)、熊谷組・志多組売掛帳(同押号の四九)の昭和四二年九月五日の欄及び同月一六日の欄によると、被告人会社では、同年八月三一日に右岡村から仕入れた鋼材を志多組に納品したが(同押号の一一五の納品伝票No.三三三八七、三三三八八)、その後返品を受けたので(同押号の一一六の納品伝票No.三四七四六)、新たに右藤田から同月二九日に仕入れていた同一品名、同一数量の鋼材を再び志多組に納品した(右納品伝票No.三四七四七、三四七四八)ものとされているが、次に説示のとおり右志多組に納品された鋼材の仕入先は、実は右藤田でも右岡村でもなく、日商であり、しかも、志多組がいったん被告人会社から納品された右鋼材を返品した事実はないと認められる。

即ち、第一に、前記田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書、注文書綴(同押号の一二四)のうち昭和四二年八月二二日付・注文No.四二八の部分、田中久夫作成の証明書(四九四)、売掛帳(同押号の四九)によると、志多組は青島電通保養所工事に使用する石の鋼材を被告人会社に注文し、これを受注した被告人会社は右鋼材を卸売元の日商に発注し、日商ではそれを東海鋼業に製造させて、このような経過で用意された右鋼材が被告人会社から志多組に納品されたものと認められる。ところで、右の注文書綴によると、志多組が右鋼材を被告人会社に注文した際の注文書の日付は昭和四二年八月二二日になっており、また、右の田中久夫作成の証明書によると、右鋼材についての東海鋼業検査課長作成の規格証明書に記載されている検査年月日は同年八月一三日と同月二五日になっているのに、前記の内海到着明細(同押号の三一及び三二)によれば、被告人会社が日商から仕入れた右鋼材が内海港に到着したのは、同年七月一八日と同年八月一六日のことであったと認められるのであって、右各日付の間に矛盾がある。しかしながら、右の田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書及び同人作成の証明書によると、前記認定のように被告人会社が日商から仕入れた東海鋼業製造の右鋼材が志多組に納品された事実は動かし得ないところであって、前記の志多組から被告人会社に対する右鋼材の注文書には、その納期を同年九月一日として前記青島電通保養所現場に搬入の指示が記載されているが、右鋼材は、特殊な異形鋼材であり、前記認定の被告人会社の右鋼材の製造経過に照らしても、右納期までに相当の期間の余裕を持って発注されて然るべきものであること、そして、右鋼材中には前記東海鋼業の規格証明書にその検査日付が同年八月一三日と記載されているものもあることに徴すると、前記志多組の注文書に記載されている同年八月二二日の日付は、単に右注文書の発行日を記載したものに過ぎず、実際にはもっと以前に志多組から右鋼材の注文があったものとうかがわれ、また、前記の東海鋼業の規格証明書に記載された各検査日付は、いずれにしたも右志多組の指定した納期より前の日であり、右鋼材の内海港到着の日との関係では如何なる事情によって右到着の日より後の日付になったかは十分に解明できないが、このことだけで前記の認定をくつがえすことはできない。

第二に、右田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書によると、被告人会社が右のように日商から仕入れて志多組の青島電通保養所工事用に納入した鋼材が被告人会社に返品された事実のないことは明らかである。

第三に、前記の田中久夫作成の証明書によると、前記のように日商から右鋼材の注文を受けた東海鋼業ではそのうちの品名一三×四・〇については一三×八・五で、一六×四・〇については一六×八・〇及び一六×八・五で、一九×四・〇については一九×八・〇でそれぞれ代用しているが、前記仕入帳の右藤田及び右岡村の口座部分をみると、右の代用された鋼材の品名、数量がそのまま仕入商品に記載されていることが明らかで、このことはいかにも不自然である。この点につき、右弁護人らは、被告人会社では一三×四・〇、一六×四・〇、一九×四・〇の鋼材を調達できないことは予め分っていたのであり、偶々藤田吾一なるものが売りに来た鋼材の中に志多組より注文を受けていた鋼材を充足できるものがあったので、これを少量買い受けたにとどまり、何ら異とするに足りないと主張する。しかしながら、前記の志多組が指定した右鋼材の納期の直前に偶々右藤田吾一が右注文を充足する鋼材を売却に現われたということ自体が、あまりにも不自然であり、しかも、右鋼材が規格証明付の特殊鋼材であったことに照らすと、弁護人らの主張は、およそ納得することができないので、措信しがたい。

第四に、前記内海到着明細と同様に、前記川崎ミサが、被告人会社の仕入れた鋼材の実際の動きを把握するために記帳していた丸鋼受払帳(同押号の三三、これには多少の誤記はあるものの、内海到着明細と同じく、記帳がなされた目的、被告人会社の仕入れ、売買関係の各帳簿との記載内容の符号性等の諸事情に照らしてその記載内容はおおむね措信しうる。)の日商からの受入分のうち八月五日及び同月二六日の部分(但し、仕入先を「丸紅」とする部分は、仕入帳(同押号の三四)のうちの日商口座の七月一九日の記載に照らして「日商」の誤記と認める)をみても、志多組に納入された前記鋼材は、現実には日商から仕入れられたものである旨記載されていることである。

以上により、少なくとも右に指摘した右藤田及び岡村からの鋼材の仕入は架空に計上されたものと推認される。

更に、右岡村からの仕入についてみると、被告人会社の関係仕入帳(同押号の三四)の光洋商事の口座部分のうち、昭和四二年九月二日及び同月三日の欄の一部によると、被告人会社は光洋商事から品名三×四〇×四〇×六〇(右仕入帳の記載はこのようになっているが、前記内海到着明細や長友農機に対する売掛帳(同押号の四七)の対応部分をみると、この正確な品名は三×四〇×六〇である。)を四五〇本、品名三×四〇×六〇を二二四本それぞれ仕入れていることが明らかであり、右売掛帳の長友農機の口座部分の同年九月三日欄によると、右商品は一八〇本と四九四本に分けて被告人会社から長友農機に売られたことが認められるのであるが、他方右仕入帳の岡村覚二の口座部分の同年八月三一日欄によると被告人会社は、右岡村から同日、前記のように光洋商事から仕入れた品名三×四〇×六〇と同じ鋼材を四九四本仕入れたうえ、右光洋商事からの仕入れ分と同様に長友農機へ転売したことになっており、右光洋商事からの仕入分と一部重複している記帳が認められる。ところが、以下に説示のとおり、実際に右の長友農機に転売された鋼材は、光洋商事からの仕入れ分であって、右の岡村から仕入れたとされる鋼材が長友農機に転売された事実はないものと認められる。

即ち、第一に、前記仕入帳の光洋商事の口座部分のうち昭和四二年九月二日及び同月三日の欄にある鉛筆メモ書をみると、品名三×四〇×六〇の四五〇本のところに「9/3長友農機二一二八五〇」、品名三×四〇×六〇の二二四本のところに「9/3長友No.三三一八九、一〇五九五二」という記載があって、右商品が長友農機に転売されたことを示している。

第二に、右の鉛筆メモ書のうち、「二一二八五〇」と「一〇五九五二」の数字を合計すると「三一八八〇二」となるが、この合計の数字は、売掛帳(同押号の四七)の長友農機の口座部分の九月三日欄のうち、品名三×四〇×六〇の一八〇本の代金額である八万五、一四〇円と品名三×四〇×六・〇の四九四本の代金額である二三万三、六六二円の合計額三一万八、八〇二円と一致するのであって、このことは実際に光洋商事から仕入れた右鋼材が長友農機に転売されたことを示すものである。

第三に、前記仕入帳の光洋商事からの仕入の記載のうち、「九月三日、三×四〇×六・〇、二二四本」の部分の「二二四本」について、前記の内海到着明細では誤って「二二五本」と記載したため、長友農機に対する右鋼材の納品書(No.三三一八九、同押号の一一五の売上伝票綴中にあるもの)には当初「三×四〇×六・〇、四九五本」と記載されていたが、その後その本数を「四九四本」と訂正されている事実が、右仕入帳、内海到着明細及び納品書によって認められ、このことからも光洋商事から仕入れた右鋼材が長友農機へ転売されたことが裏付けられる。

第四に、以上に加えて、株式会社長友農機の代表取締役である長友政明及び長友藤夫の大蔵事務官に対する各質問てん末書によると、同会社は、被告人会社から品名三×四〇×六・〇の鋼材を同数量重複して仕入れたことはなく、右の仕入鋼材を返品した事実もないことが窺える。(右長友農機では返品をした場合には仕入帳に赤書き表示をすることになっているのに、右質問てん末書添付の仕入帳にはその旨の記載はない)。

右のとおりで、前記被告人会社の仕入帳の岡村覚二の口座部分中には更に不可解な仕入の記載がある。

以上に指摘の各事実に加えて、前記のように、藤田吾一及び岡村覚二なる者の存在自体が把握しようのないこと、右両名作成名義の請求書及び領収証がいずれも被告人会社の従業員によって作成されていること、そして、関係の買掛金月報にも工作の形跡があることを綜合すると、前記仕入帳に記載された右藤田及び岡村なるものからの仕入も、すべて架空に計上されたものと認めざるを得ない。

(四)  金森七郎関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の中山商事の口座部分のうち昭和四二年八月六日の欄には、品名九×六・五の鋼材を四、五〇〇本、品名九×五・五の鋼材を六、〇〇〇本それぞれ仕入れた旨の記載があり、また同月二四日の欄には、品名九×六・〇の鋼材を七、五〇〇本仕入れた旨の記載がある。そして、内海到着明細(同押号の三二)のNo.8/18、玉藤丸、八興の部分及びNo.8/6、平祐丸、八興の部分、No.三三三八〇の納品伝票(同押号の一一四)、日南小林方面売掛帳(同押号の四八)の河野建設の口座部分のうち昭和四二年八月二七日の欄を総合すると、中山商事から仕入れた前記鋼材九×六・〇の七、五〇〇本のうち一、七四〇本、九×六・五の四、五〇〇本のうち五〇〇本、九×五・五の六、〇〇〇本のうち二〇〇本はそれぞれ納品伝票番号No.三二三〇によって河野建設に転売されていることがわかる。他方、右仕入帳の金森七郎の口座部分には、被告人会社は、昭和四二年八月三一日に右金森なるものから右の河野建設に納入したものと同品名、同数量、同重量の鋼材を仕入れたうえ、これらを河野建設に納入した旨記載されている。ところが、川崎重仁作成の上申書によると、河野建設では、被告人会社が金森七郎から仕入れたとされる日よりも前の昭和四二年八月二七日には既に被告人会社から右鋼材をNo.三二三八〇の納品伝票による代金三〇万五、八九七円で買い入れているのであって(このことは、前記の日南小林方面売掛帳の河野建設の口座の同日欄の記載と全く一致している。)また、河野建設では被告人会社から買い入れた鋼材を返品したことは一度もないことが認められ、更に、前記の内海到着明細の前記記載部分からも、前述の中山商事から仕入れた鋼材がNo.三二三八〇の納品伝票により河野建設へ転売されたものと窺えることに照らすと、右の河野建設に転売された鋼材は、中山商事から仕入れたものに他ならないと認められるものであり、これと重複する右仕入帳中の金森七郎からの仕入の記載は全く不可解である。

以上に加えて、前記のように金森七郎なる者の存在自体が把握しようのないこと、前記認定の金森七郎作成名義の請求書及び領収証の形態と関係の買掛金月報に工作の形跡があることを併せ考えると、前記仕入帳の金森七郎の口座部分には被告人会社が右金森なる者から同年八月三一日に合計三六五万三、三三六円分の鋼材を仕入れたことが記載され、これに対応する金森七郎作成名義の請求書(同押号の四〇)が存在するが(但し、右請求書によれば、八月二五日と同月二七日の二回にわたり右合計代金額の鋼材を納入したようになっている)、これは、すべて架空に計上されたものと認めざるを得ない。

(五)  泉幸生関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の日商の口座部分のうち昭和四二年八月五日欄には、品名九×四・五の鋼材を二、一〇〇本、九×七・〇の鋼材を一、八〇〇本、九×七・五の鋼材を一、二〇〇本それぞれ仕入れた旨の記載がある。そして、内海到着明細(同押号の三二)のNo.85、日商、萬吉丸(松滝)と表示された部分、納品伝票No.三一五七三(同押号の一一四)、被告人会社の熊谷組、志多組売掛帳(同押号の四九)のうち志多組の口座部分の同年八月二一日の欄及び田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書によると、被告人会社は、同年八月二一日、右日商から仕入れた品名九×四・五及び九×七・五の鋼材についてはその仕入分の全部を、九×七・〇の鋼材についてはその仕入れた一、八〇〇本のうち一、一二〇本をそれぞれ被告人会社の太田、高倉運転手により志多組の清武中学校現場に納入したことが判明する。

ところが、他方において、被告人会社は、右の志多組に納入された鋼材と商品名、同数量の鋼材を泉幸生なる者から代金合計五一万一、七五〇円で仕入れたとする同年九月一三日付の領収証(同押号の四三の泉幸生作成名義の領収証)が存在し、その領収証の裏面には、右鋼材を前記納品書番号と同じNo.三一五七三で志多組に納入した旨の記載がある。

しかしながら、前掲各証拠によると、前記志多組の清武中学校現場へ納入された鋼材は右の日商からの仕入分であることが明らかであり、しかも、前記田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書によると、志多組では清武中学校の工事のために仕入れた鋼材を返品したことはなかったというのであって、右泉幸生作成名義の領収証の記載は全く不可解である。

以上に加えて、前記のように泉幸生なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の右泉幸生作成名義の領収証の形態を併せ考えると、右の領収証に記載された泉幸生なる者からの鋼材の仕入は架空であるといわざるをえない。

(六)  北野道夫関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の丸紅飯田の口座部分のうち昭和四二年七月二二日の欄には、品名九×五・五の鋼材を一、九〇八本、九×六・〇の鋼材を二、〇九一本、九×六・五の鋼材を四三〇本それぞれ仕入れた旨の記載がある。そして、右記載部分の鉛筆メモ書欄に消したあととして残された「7/22志多組五二五二一八」という記載の痕跡、熊谷組、志多組売掛帳(同押号の四九)のうち志多組の口座部分の昭和四二年七月二二日の欄の記載(その金額欄の五二五二一八という数字は、右の鉛筆メモ書の痕跡「五二五二一八」と一致し、また、その現場名欄には「宮銀」という記載がある。)、納品伝票No.二八八二二(同押号の一三二、この納品番号は右の志多組に対する売掛帳記載の納品番号と一致し、この商品伝票には「宮崎銀行高千穂支店」という記載がある。)の存在、丸紅飯田の支払明細書(同押号の三七の丸紅飯田納品書綴のうちにある請求書No.七-二二三)の出荷月日欄にある「七・一九ミヤザキBK」という記載及び田中久夫の大蔵事務官に対する質問てん末書を総合すれば、右の丸紅飯田から仕入れた鋼材が志多組の宮崎銀行高千穂支店工事現場に納入されたことが判明する。

そうすると、被告人会社が、右と全く同じ品名、数量の鋼材を北野道夫なる者から代金合計四九万五〇円で仕入、その鋼材を前記納品書番号と同じ番号の二八八二二の納品伝票で志多組に納入した旨の北野道夫作成名義の領収証(同押号の四三)の記載は、既述の理由及び志多組では宮崎銀行高千穂支店の工事につき納入鋼材を返品したことはなかったという旨の前記田中久夫の質問てん末の供述記載からみて、全く不可解なものである。

さらに、被告人会社の右仕入帳のうち光洋商事の口座部分の同年七月一七日の欄には、品名H型の鋼材を一本、I型の鋼材を四本それぞれ仕入れた旨の記載がある。そして、前記内海到着明細(同押号の三一)の三三丁、生玉丸八興の部分に「三和鉄工7/17No.二八三二一」という記載があること、右内海到着明細の記載にそう納品伝票No.二八三二一(同押号の一三一)が存在すること、被告人会社の売掛帳(同押号の四六)の三和鉄工の口座部分のうち同年七月一七日の欄には、被告人会社は、三和鉄工に対し、右鋼材を同日、代金一八万五〇五九円で売却した記載があり、この記載は被告人会社の前記仕入帳のうち、光洋商事の口座部分の同月一七日の欄にある「7/17、三和鉄工、一八五〇五九」という鉛筆メモ書きと一致していること、以上に有限会社三和鉄工所の代表取締役である岩坂義次の大蔵事務官に対する質問てん末書を総合すれば、前記仕入帳に記載された光洋商事からの仕入れ鋼材が現実に三和鉄工に納入されたことが明らかとなる。

他方において、被告人会社は右鋼材と全く同一の品名、数量のものを北野道夫なる者から合計一七万六、二六二円で仕入れたという旨の記載がある同人作成名義の領収証(同押号の四三)が存在し、その裏面には、右仕入れにかかる鋼材を前記納品番号と同一の納品番号二八三二一の納品書で三和鉄工に売却した旨の記載がある。しかしながら、前記のとおり、現実に三和鉄工に納入された右鋼材は、前述の光洋商事から仕入れたものであることが明らかであり、しかも、前記岩坂義次の質問てん末書によれば、三和鉄工では右鋼材を返品して取り替えたことはないというのであるから、右北野道夫作成名義の領収証の右の記載も全く不可解である。

以上に加えて、前記のように北野道夫なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の北野道夫作成名義の領収証の形態を併せ考えると、右領収証に記載された北野道夫なる者からの合計六六万六、三一二円の鋼材の仕入れは、すべて架空であるといわざるをえない。

(七)  坂田年夫関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の岩井産業の口座部分のうち昭和四二年六月一一日の欄には、品名一六×五・〇、一六×五・五、一六×六・〇の鋼材を各二七〇本、一六×六・五の鋼材を二二五本、一六×七・〇の鋼材を四〇〇本、一六×七・五の鋼材を一八〇本、一六×八・〇の鋼材を九〇本、一六×八・五の鋼材を二〇本それぞれ仕入れた旨の記載がある。そして、駅到着丸鋼明細(同押号の六六)の八丁目、同月一二日の日付欄をみると、被告人会社は、右の鋼材のうち一六×五・〇を二一〇本、一六×六・〇を四七本、一六×六・五を五〇本、一六×七・〇を一五〇本、一六×七・五を一四〇本、一六×八・〇を九〇本、一六×八・五を二〇本それぞれ納品伝票No.二五〇四一で第一工業の林業会館建設現場に納入したことになっており、これにそう納品伝票No.二五〇四一(同押号の一二九)も存在する。

ところが、他方において、被告人会社では、右の岩井産業から仕入れた第一工業に納入したものと全く同一の品名、数量の鋼材を坂田年夫なる者から代金二五万九、〇〇〇円で仕入れたということが記載された領収証(同押号の四三)が存在し、その裏面には、右鋼材を前同様の納品番号二五〇四一で第一工業に納入した旨の記載がある。

ところで、右駅到着丸鋼明細は、前記のとおり真実の取引を記載していると認められるところ、その前記指摘の記載部分によると、右の岩井産業から仕入れた鋼材こそが同年六月一二日に納品番号二五〇四一で第一工業へ納入されたものと認められ、このことは、被告人会社の売掛帳(同押号の三六)の第一工業の口座部分の同日欄の記載と全く一致していること、右駅到着丸鋼明細の前記記載部分には「トラ三〇〇九岩井」という記載があり、右仕入帳の前記記載部分の備考欄にも「トラ三〇〇九」という記載があって、これらの記載は同一の貸車番号を表示したものと考えられること、第一工業の経理担当者である壱岐悦子の大蔵事務官に対する質問てん末書によると、第一工業が右鋼材を仕入れたのは右駅到着丸鋼明細や右売掛帳の記載と同じ六月一二日であり、第一工業では右と同じ品名、数量の鋼材を重ねて仕入れた事実はなく、また、返品により取り替えた事実もないことが認められることによって裏付けられるのであって、これらの事実に照らすと、坂田年夫作成名義の右領収証の記載は全く不可解である。

以上に加えて、前記のように坂田年夫なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の坂田年夫作成名義の領収証の形態を併せ考えると、右坂田年夫作成名義の領収証に記載された仕入も架空であると認めざるを得ない。

(八)  白木明年関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の三菱商事の口座部分のうち、昭和四二年七月二八日の欄には、品名三×二五×二五×六・〇の鋼材を四五〇本、三×四〇×四〇×六・〇の鋼材を三六〇本それぞれ仕入れた旨の記載がある。そして、内海到着明細(同押号の三一)の二三丁目、No.7/28の宮藤丸、八興の記載部分、納品伝票No.二九六五二(同押号の一三二)日南、小林方面売掛帳(同押号の四八)の宮越鉄工の口座部分のうち同月三一日の欄の記載、宮越鉄工所の取締役である宮越竹行の大蔵事務官に対する質問てん末書に添付された被告人会社からの仕入帳の写しの同日欄を総合すると、前記の三菱商事から仕入れた鋼材は全部現実に宮越鉄工所へ納入されたことが認められる。

他方、被告人会社には、右と同一の品名、数量の鋼材を代金合計三〇万三〇〇円で白木明年なる者から仕入れたとする同人作成名義の領収証(同押号の四三)があり、その裏面には、右鋼材を宮越鉄工所に前記の三菱商事からの仕入れ鋼材と同一の納品番号で納入した旨の記載がある。しかしながら、右納品番号で宮越鉄工所に納入された鋼材は前記の三菱商事からの仕入れたものであることが既述のとおり明白であり、前記宮越竹行の質問てん末書によると、宮越鉄工所では右鋼材を被告人会社から仕入れたのは一回きりであったと認められることに照らせば、白木明年作成名義の右領収証の記載は不可解である。

以上に加えて、前記のように白木明年なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の同人作成名義の領収証の形態を併せ考えると、白木明年作成名義の右領収証に記載された仕入も架空であるといわざるを得ない。

(九)  杉原保関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の光洋商事の口座部分のうち同年八月一日の欄には、アングル三×四〇×四〇×六・〇という鋼材を五四〇本仕入れたという記載がある。そして、右仕入帳の右記載部分の備考欄に鉛筆書きで「宮越鉄工二六一三六〇」という記載があること、内海到着明細(同押号の三一)の二二丁目、7/31、玉藤丸、八興のうち光洋商事分のところに「宮越鉄工、8/1、No.二九七九四」という記載があること、右内海到着明細の記載にそう納品伝票No.二九七九四(同押号の一三三)が存在すること、日南、小林方面売掛帳(同押号の四八)のうち宮越鉄工所の口座部分の八月一日の欄には、右鋼材を同日、納品番号二九七九四、代金二六万一、三六〇円で宮越鉄工に売却した旨の記載があり、その代金額が前記仕入帳備考欄の鉛筆書きの数字と一致していること、前記宮越竹行の大蔵事務官に対する質問てん末書に添付された仕入帳写しの八月一日欄には、右売掛帳に相応する記載があることの各事実に照らせば、被告人会社は、右の光洋商事から仕入れた鋼材を同年八月一日に宮越鉄工所に転売したことが認められる。

他方、被告人会社には、右鋼材と全く同一の品名、数量のものを杉原保なる者から代金二五万五、四〇〇円で仕入れたとする同人作成名義の領収証(同押号の四三)があり、その裏面には、右鋼材を前記光洋商事から仕入れた鋼材の転売の場合と同じ納品番号で宮越鉄工所に納入した旨の記載がある。しかしながら、前記のように光洋商事から仕入れた同品名、同数量の鋼材が現に同じ納品番号で宮越鉄工所に転売されたことは明らかであり、さらに、前記宮越竹行の質問てん末書によると、宮越鉄工所では被告人会社から右鋼材を重ねて仕入れた事実はないと言うのであるから、右杉原保作成名義の領収証の記載は全く不可解である。

以上に加えて、前記のように杉原保なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の右杉原保作成名義の領収証の形態を併せ考えると、右領収証に記載された杉原保なる者からの仕入も架空であると認めざるを得ない。

(一〇)  菅原成吉関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の光洋商事の口座部分のうち同年七月一三日の欄には、アングル三×二五××二五×六・〇という鋼材を六〇〇本仕入れた旨の記載がある。そして、前記内海到着明細(同押号の三一)の四〇丁目、7/12、日南丸(松浦)の部分にある「L三×二五×六〇、六〇〇、長友農機、7/13、No.二七八九七」という記載、この記載にそう納品伝票No.二七八九七(同押号の一三一)が存在すること、売掛帳(同押号の四七)の長友農機の口座部分のうち、同年七月一二日の欄に記載されている売上先、品名、本数、納品番号がすべて右内海到着明細の記載と一致していることの各事実に長友政明及び長友藤夫の大蔵事務官に対する各質問てん末書を総合すると、被告人会社は、右の光洋商事から仕入れた鋼材を現に長友農機に転売したことが認められる。

他方、被告人会社には、右の鋼材と全く同一の品名、数量のものを菅原成吉なる者から一四万一、一二〇円で仕入れたとする同人作成名義の領収証(同押号の四三)があり、その裏面には、右鋼材を前同様二七八九七の納品番号で長友農機に納入した旨記載されている。しかしながら、前記のように光洋商事から仕入れた同品名、同数量の鋼材が同じ納品番号で長友農機に転売されたことは明らかであるうえ、前記長友政明及び長友藤夫の各質問てん末書によると、長友農機では被告人会社から右商品名の鋼材の同数量を重ねて仕入れたことはなく、また返品により取り替えたこともないと言うのであるから、右菅原成吉作成名義の領収証の記載は全く不可解である。

なお、右仕入帳(同押号の三四)の光洋商事の口座部分の前記七月一三日欄の備考欄に鉛筆書きで「第三」という記載があり、また、右内海到着明細の前記記載欄の「L三×二五×六〇、六〇〇、長友農機」の記載が横線で抹消されていることから、一見、右の光洋商事から仕入れた鋼材は、被告人会社の第三倉庫に搬入されたかのようにみえる。しかしながら、太田喜市の検察官に対する供述調書によると、被告人会社の自動車運転手であった同人は、宮崎駅や内海港で仕入鋼材を受けとり、トラックに積んで右第三倉庫に運搬した時点ですぐにその鋼材を転売先に持って行くように指示を受けることもあったというのであるから、右の光洋商事から仕入れた鋼材が長友農機に転売されたものと認めた前記認定に矛盾があるとは言えない。

以上に加えて、前記のように菅原成吉なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の菅原成吉作成名義の領収証の形態を併せ考えると、右領収証に記載された菅原成吉なる者からの仕入も架空であると認めざるを得ない。

(二) 立山国夫関係

被告人会社の仕入帳(同押号の三四)の光洋商事の口座部分のうち昭和四二年八月九日の欄には、鉄板四・五×一五二四×三〇四八を四〇枚仕入れた旨の記載がある。そして、前記内海到着明細(同押号の三一)の二二丁目、7/31、玉藤丸、八興の部分のうち光洋商事の個所には、「鉄板四五×五×一〇、四〇、川原業務店、8/9、No.三〇五七四」という記載があり、右仕入帳の備考欄にも転売先を記載したものとみられる川原建材という鉛筆書きがあること、右内海到着明細に記載された番号の納品伝票No.三〇五七四(同押号の一三三)が存在し、日南、小林方面売掛帳(同押号の四八)の川原建材の口座部分のうち、同年八月九日の欄には、被告人会社は右鉄板の同数量を川原建材に売却した旨の記載があり、その納品番号が右内海到着明細のNo.三〇五七四という記載と一致するうえ、その代金額が右仕入帳の備考欄記載の「二七五五二〇」という数字と一致することの各事実に照らすと、右の光洋商事から仕入れた右鉄板が現実に川原建材に納入されたものと認められる。

他方、被告人会社には、右鉄板と全く同一の品名、数量のものを代金二六万二、四〇〇円で立山国夫なる者から仕入れたとする同人作成名義の領収証(同押号の四三)があり、その裏面には右鉄板を前記納品番号と同じNo.三〇五七四で右川原建材に納入した旨の記載がなされている。しかしながら、右川原建材に転売された鉄板の仕入れ先が光洋商事であることは既述のとおり明らかであるから、右立山国夫作成名義の領収証の記載は全く不可解である。

以上に加えて、前記のように立山国夫なる者の存在自体が把握しようのないことと、前記認定の立山国夫作成名義の領収証の形態を併せ考えると、右領収証に記載された立山国夫なる者からの仕入も架空と認めざるを得ない。

なお、被告人岩切及びその弁護人らは、右田中直人他一一名の所在を明らかにできないのは、同人らからの仕入もいわゆるスポット買いであったからであると弁解する。しかし、前記のとおり、右田中直人ら一二名からの仕入は、いずれも被告人会社の決算期に近い七月から九月に集中しており、しかも、これらの仕入れた鋼材は、その仕入の日頃に被告人会社の顧客の注文に応じてそのまま転売されたことになっていて、これらのことは、右各仕入がいわゆるスポット買いであると言うのに甚だ似つかない事情であるし、また、被告人会社としては、右田中直人ら一二名の所在を明らかにできないことによって、課税上これらの者からの仕入を否認される危険が当然予測されたはずで、前記のとおり領収証等に表示された右田中直人ら一二名の住所がいずれも被告人会社の事務所の所在地である宮崎市内であって、容易にこれらの者の所在を確められたのに、これを確めなかったことについての特段の事情も証拠上見当らないことに徴すると、被告人岩切及びその弁護人らの右弁解は受け容れ難い。

また被告人岩切及びその弁護人らは、右田中直人ら一二名から仕入れた商品もすべて現に被告人会社の得意先に転売されているのであって、このことは、右各仕入が架空のものでない証拠であると主張する。しかし、既に右各仕入について格別に検討してきたとおり、被告人会社の帳票に右各仕入商品の転売の記載があっても、それが他の商社からの仕入商品の転売の状況を引き写しただけに過ぎないと認められるものが右田中直人ら一二名のすべての関係で存在するのであって、右被告人及び弁護人らの主張はおよそ採用できない。

更に、右弁護人らは、右田中直人ら一二名からの仕入についても、仮にそれらが架空であっても経理上それらの仕入商品に相当する資産額が当該営業年度の益金に計上されることになるから、被告人会社の所得額を減少させることにならないと主張するが、この点について前記第六の山田商事関係で示したのと同様の理由により右主張は採用できない。

第八判示第一の各事実に関する事業税引当損について

検察官は、被告人会社の逋脱所得の算出に際し、昭和四〇年一〇月一日から昭四一年九月三〇日までの事業年度(判示第一の一)の事業税引当損として、七万八、五七〇円を、昭和四一年一〇月一日から昭和四二年九月三〇日までの事業年度(判示第一の二)の事業税引当損として、六〇七万八、五〇〇円を、それぞれ損金計上しているが、現時点では、もはや、これらを損金計上できないことは明白である。しかしながら、検察官は、判示第一の各事実にかかる新たな訴因変更時点(昭和五五年一二月一六日)においてもなお主張を維持しており、これが被告人会社に有利である以上、検察官のその主張の範囲内で逋脱所得額を認定すべきものである。よって、右各事業税引当損については、検察官の主張に沿ってこれらをそのまま損金に計上した。

第九判示第二の一の事実に関する被告人大野の金融仲介手数料(営業収入)の除外について

一、岡勢隆平の赤江農協に対する導入預金に関して中村勇夫から受取った金融仲介手数料の除外

前掲の関係各証拠によると、被告人大野は、中村勇夫からいわゆる導入預金による金融の依頼を受けて同人のために岡勢隆平をして赤江農協に導入預金をさせることとし、

(一) 昭和四二年四月一九日に三、〇〇〇万円の三か月定期による右導入預金を実現させて、中村が支払った右三、〇〇〇万円に対する月六分の割合による裏利息五四〇万円の内からその仲介手数料として一三五万円を、

(二) 同年同月二五日に三、〇〇〇万円の三か月定期による右導入預金を実現させて、右(一)と同様にして中村が支払った裏利息五四〇万円の内からその仲介手数料として一三五万円を、

(三) 同年七月一九日に三、〇〇〇万円の三か月定期による右導入預金(右(一)の預金の切替)を実現させて、中村が支払った右三、〇〇〇万円に対する月七分の割合による裏利息六三〇万円の内から仲介手数料として二二五万円を、

(四) 同年同月二五日に二、〇〇〇万円の三か月定期による右導入預金(右(二)の預金の一部切替)を実現させて、中村が支払った右二、〇〇〇万円に対する月七分の割合による裏利息四二〇万円の内からその仲介手数料として一五〇万円を、

(五) 同年一〇月一九日に三、〇〇〇万円の三か月定期による右導入預金(右(三)の預金の切替)を実現させて、右(三)と同様にして中村が支払った裏利息六三〇万円の内からその仲介手数料として二二五万円を、

(六) 同年同月二五日に一、〇〇〇万円の三か月定期による右導入預金(右(四)の預金の一部切替)を実現させて、中村が支払った右一、〇〇〇万円に対する月七分の割合による裏利息二一〇万円の内からその仲介手数料として七五万円を、

それぞれ右各預金の日頃に取得したが、判示第二の一記載の所得税確定申告においてこれら仲介手数料の合計九四五万円を所得に加えなかったことが認められる。

ところで、被告人大野は、第四七回公判において、右認定の各仲介手数料は終始導入預金額に対する月一分の割合でしか取得しなかったと述べ、それまでの供述を変更するに至り、その弁護人もその旨主張している。しかし、被告人大野は、右供述変更の理由として、前記岡勢の裏にいた金主小林正雄の氏名を出さないために被告人大野が右金主の取得分をも含めて右各仲介手数料を実際の取得分以上に多く取得したように供述してきたけれども、今となっては金主の分まで責任を負担するだけの利益がなくなったからであると言うのであるが、前掲の関係各証拠によると、もともと捜査段階から右の金主なる者の存在は全く疑われてもおらず、中村の支払った裏利息は前記岡勢と被告人大野との間で分配したものとされてきたことが明らかであって、被告人大野の右供述変更の理由は合理的でなく、しかも被告人大野は、捜査段階から前記認定額の各仲介手数料の取得を認めてきたのに、第四七回公判前日に至って初めてその供述を変更するに至ったことに照らすと、被告人大野の右変更後の供述はにわかに措信し難い。

二、被告人会社から中村勇夫に対する金融の仲介手数料の除外

被告人大野の右仲介手数料の取得については、被告人会社の中村からの受取利息との関連で前記第四の一の(一)乃至(四)で説示したとおりであり、これをまとめると、別表(四)の被告人会社から中村勇夫に対する簿外貸付経過表の被告人大野の仲介手数料欄に記載のとおりとなり、その昭和四二年中に被告人大野が取得した右仲介手数料の合計額は二、五八五円であるが、前掲の関係各証拠によると、被告人大野は、判示第二の一記載の所得税確定申告において、右仲介手数料の全部をその所得から除外していることが明らかである。

なお、検察官主張の被告人大野の受取仲介手数料中、昭和四二年六月一六日の約束手形の割引に関する仲介手数料一〇〇万円については、前記第四の一の(六)に説示のとおり証拠上その取得の事実を認定することができないので、被告人大野の本件所得に加えない。

三、右一及び二の各金融仲介手数料の帰属主体について

被告人大野は、右二の金融仲介手数料については、そのすべての受取そのものを否認しているのであるが、右一の仲介手数料につき、昭和四二年七月三〇日までに受け取った分は、当時被告人大野が代表取締役となり金融業を営んでいた大興商事株式会社の収入であって、被告人大野個人の所得に含まれないと言い、その弁護人も同様主張する。ところで、右一及び二の各仲介手数料は、いずれも中村勇夫の土地買収及び宅地造成事業に関しての同人に対する一連の金融の仲介によるものであるから、これらを一括してその帰属を考察するのが相当であるところ、

(一) 右二の被告人会社から中村勇夫に対する金融は昭和四〇年一〇月一五日から始まっており、既にその時から被告人大野がその仲介をしたことは前記のとおりであるが、その当時にはいまだ大興商事株式会社は設立されていなかったこと(被告人大野の検察官に対する昭和四五年一一月六日付供述調書)、なお、このことは、被告人大野が昭和四二年八月一〇日に宮崎県に対し自己の貸金業届出(宮崎県知事黒木博作成の貸金業届出済証の写参照)をする前から個人で金融仲介業をしていたことを示していること

(二) 第四六回公判調書中村の証人岡勢隆平の供述部分によると、右岡勢が右一記載の導入預金をするに際して被告人大野は右岡勢に対し預金先の赤江農協が導入預金の払戻をしないときには、被告人大野個人が代って導入預金額を支払う旨申し入れていたことが認められること

(三) 被告人大野は、捜査段階から右一記載の導入預金の仲介は最初から最後まで個人で行ってきたものであり、従って、大興商事株式会社の金融部門を廃止して被告人大野個人の事業に移した際にも右一記載の導入預金関係については同会社からの引継等をしていない旨供述していること(被告人大野の検察官に対する昭和四五年一一月一七日付供述調書・四丁のもの)

(四) 被告人大野は、右一記載の受取った仲介手数料をすべて自宅に保管し、自己の飲食、遊興費など個人的な用途に消費したこと(被告人大野の司法警察員に対する昭和四三年九月一一日付供述調書謄本・四丁のもの)

(五) 被告人大野は、公判廷においても、右一記載の各導入預金の仲介に関してその労をとったのは自分一人であって、右導入預金の仲介手数料を受け取っても、そのことを大興商事株式会社の他の役員には知らせていなかったと供述していること(第四六回及び第四八回公判調書中の被告人大野の各供述部分)

の各事情を総合すると、右一及び二記載の被告人大野が収受した各金融仲介手数料はすべて被告人大野個人の所得に属したものと認めるのが相当である。

以上のとおりで、判示第二の一の事実の関係で被告人大野が所得申告から除外した営業収入の総計は、三、五三〇万円となる。

第(一〇)判示第二の一の事実に関する営業経費について

検察官は、被告人大野の右逋脱所得額の算定に関し、営業経費を公表金額に三〇万一、〇〇〇円加算計上している。ところで右営業経費の加算額三〇万一、〇〇〇円の内、被告人大野の宮崎銀行橘通支店に対する簿外借入金の支払利息五万一、〇〇〇円については、これを認定する証拠がない。しかし、右支払利息の計上は、被告人大野に有利なことであるから、検察官がこれを維持している以上、それにそって所得額を算定すべきである。従って、右支払利息相当額の五万一、〇〇〇円も営業経費に計上した。

第(一一)判示第二の二の各事実について

被告人大野の弁護人は、判示第二の二の各事実に関し、先ず、被告人大野は、中村勇夫に頼まれて岡勢隆平に対し赤江農協への定期預金を勧誘し、中村からその謝礼として金銭をもらっただけで、判示第二の二に記載のような契約をすることまでは認識していなかったと主張するが、前掲の関係各証拠によれば、判示第二の二の各導入預金の契約は、被告人大野が中村から同人のためにする赤江農協への導入預金の依頼を受けて、右岡勢と通謀の上、同人をして右各導入預金をさせることにしたことによって実現したものであり、中村から岡勢に対する裏利息の支払も被告人大野を通じて行われたことが認められるのであって、被告人大野に右各導入預金の契約をすることの認識があったことは優に認められる。また、同弁護人は、右岡勢は中村勇夫と会ったことがなく、その氏名も知らなかったのであるから、本件各導入預金においては、預金等に係る不当契約の取締に関する法律二条一項に言う預金者が「特定の第三者と通じ」の要件を欠いていると主張するが、前掲の関係各証拠によると、右岡勢は中村勇夫を知らなかったにしても、右各導入預金について被告人大野以外に赤江農協から融資を受ける者がいるとも思っていたことが認められ、被告人大野を介して右中村と通じたものと認めるのが相当であるから、右弁護人の主張も採用できない。

(累犯前科)

被告人大野は、昭和三六年三月二日、宮崎地方裁判所で詐欺罪により懲役一年に処せられ、昭和三八年九月二五日右刑の執行を受け終ったもので、この事実は検察事務官作成の昭和五六年一月六日付前科調書によって認められる。

(法令の適用)

被告人会社の判示第一の一及び二の各所為は、法人税法一六四条一項、一五九条一項に、被告人岩切の判示第一の一及び二の各所為は同法一五九条一項に、被告人大野の判示第二の一の所為は所得税法二三八条一項に、同被告人の判示第二の二の各所為は預金等に係る不当契約の取締に関する法律第四条一号、二条一項、刑法六〇条にそれぞれ該当するので、被告人岩切の判示各所為についてはいずれも懲役刑を選択し、被告人大野の判示各所為についてはいずれも懲役刑と罰金刑を併科することとし、なお、同被告人には前示の前科があるので、刑法五六条一項、五七条によりその各懲役刑につき再犯の加重をし、以上は各々刑法四五条前段の併合罪なので、被告人会社については同法四八条二項によりその各罪所定の罰金の合算額の範囲中で被告人会社を罰金七〇〇万円に、被告人岩切については、同法四七条本文、一〇条により犯情の重い判示第一の二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲中で同被告人を懲役一〇月に、被告人大野については、懲役刑につき同法四七条本文、一〇条により犯情の最も重い判示第二の一の罪の刑に法定の加重をし、罰金刑につき同法四八条二項によりその各罪所定の罰金額を合算し、その刑期及び金額の範囲中で同被告人を懲役一年四月及び罰金五〇〇万円にそれぞれ処し、被告人大野に対し、右の罰金を完納することができないときは、同法一八条により金五万円を一日に換算した期間、同被告人を労役場に留置することとし、被告人岩切及び同大野に対し情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日からいずれも一年間右懲役刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項により主文第四項掲記の分を同掲記のとおり各被告人に負担させることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 米田俊昭 裁判官 田中正人 裁判官 白石研二)

別表(一)

被告人会社の修正損益計算書

〈省略〉

逋脱所得=(認定額の当期益金)-(公表金額の当期益金)

=27,050,904-5,269,988

=21,780,916

判示第一の一の税額の計算

〈省略〉

脱税額=(9)-(8)

=9,543,324-1,702,164

=7,841,160

別表(二)

被告人会社の修正損益計算書

〈省略〉

逋脱所得=(認定額の当期益金)-(公表金額の当期益金)

=52,543,311-9,372,399

=43,172,912

別表(三)

被告人大野の修正損益計算書

〈省略〉

別表(四)

被告人会社から中村勇夫に対する簿外貸付経過表

〈省略〉

〈省略〉

〈省略〉

判示第一の二の税額の計算

〈省略〉

脱税額=(9)-(8)

=18,180,750-3,070,200

=15,110,550

別表(五)

山田商事からの架空仕入内訳表

〈省略〉

別表(六)

〈省略〉

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